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コラム

〈言葉〉と〈行為〉のあいだ ―西山宗因の〈心〉を探る―(尾崎千佳)

遊行と定住

かくして浮かびあがってきたのは、宗因がその最晩年に至るまで、遊行を繰り返していたという事実である。
例えば、75歳の延宝7年(1679)9月、4箇月に及ぶ伊勢逗留を終えた宗因は、長旅の疲労から瘧(おこり)を発症して病臥するが、食欲・気力とも衰えず、やがて快復する。しばらくは遠出を控えていたものの、翌年2月には水田西吟を伴って上京し、伏見に西岸寺任口を訪ね、そのまま任口とともに堺まで遊んでいる。7月には伊丹の也雲軒に止宿し、愛宕火見物に興じた。死の前年に当たる延宝9年(1681)の春も、京都の花を楽しんだあと大和郡山まで足を伸ばし、秋には三井秋風の招きに応じて洛西鳴滝の花林園に暫時逗留している。この間、大坂天満の向栄庵には、三都の著名俳家のみならず、商用のため上坂した地方好士の来客が絶えなかった。
宗因流俳諧は、宗因みずからの行脚によって伝播し、西国筋を中心とする商業流通のうえに発展する。

「卑下の袂を墨にそめ、わかやぎ誹諧すべき」

65歳の寛文9年(1669)、九州に下った宗因は、その俳諧の虜になった佐賀俳壇の連衆に、「六十に余りはいかいをせば、若き作者とあらそひて詞の先をかけんもおとなげなし」(西翁道之記)と語ったという。5年後の発言「若とのばらとあらそふやうなるもおとなげなし」を想起させる宗因の言葉は、実は、謡曲『実盛』における斎藤実盛の台詞「六十に余つて戦をせば、若殿原と争ひて、先を駆けんもおとなげなし」のパロディであった。佐賀衆に対する宗因の言葉は、『実盛』の詞章を逐語的にもじりつつ、「又ふる口とて人々にあなどられんも口ほしかるべし。卑下の袂を墨にそめ、わかやぎ誹諧すべきよし」と続く。〈鬚〉を墨で染めて若武者のふりをした老武者実盛よろしく、宗因老人も〈卑下〉して若者ぶり、当世流行の俳諧に遊ばんというのである。同じ頃、松江維舟も「事にあらそふ若人にあなづられんも口惜しかるべし」(時勢粧)と述べているから、俳風角逐の比喩として、『実盛』のフレーズは使いやすかったものらしい。但し、続けて「むべも連歌は誹諧のもと也」と断じ、みずからの連歌の経験を誇示する俳諧師維舟と、「卑下」して「誹諧」する宗因の姿勢はまったく正反対である。

先行研究は、これら、俳諧に対する宗因の謙退の言葉を額面通りに受け取り、俳壇とは距離を取る連歌師宗因像を描いてきた。だが、宗因の言葉に含まれる卑下や謙遜は、連歌師が俳諧の世界に参入するためのポーズであり、連俳兼業に対する批判をあらかじめ回避するためのエクスキューズであったのである。

庇護と自由

かく言葉を弄して自己を韜晦し、連歌と俳諧の二足の草鞋を履き続けた宗因の本心は那辺にあったのだろうか。宗因を庇護することを望んだ人物は、地域・階層を問わず多数存在した。それは、宗因が、連歌と俳諧の両道において、一代にして世間の評価を獲得したことの、紛れもない証であったに違いない。
しかし、宗因はいずれの勧誘も言葉巧みに辞退して、生涯、遊行と定住の二重生活を貫いた。牢人から出発した宗因は、連歌師として立身後、誰かに専属的に雇用される人生を選ばず、磨きあげた言葉の技能を最大限に活用することで、一身の自由を保持したのである。

かかる解釈が許されるならば、『西山宗因の研究』は、近世前期の人間の心性の理解にも、資するところがあるかも知れない。


【筆者】
尾崎 千佳(おざき ちか)
1971年 長崎県長崎市生
2001年 大阪大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学
現 在 山口大学准教授

〔主な著作〕
『西山宗因全集 全6巻』(共編、2004~2017年、八木書店)
『新天理図書館善本叢書31・32 連歌巻子本集一・二』解題(2020・2021年、八木書店)
「大内氏の文芸」(『大内氏の世界をさぐる』、2019 年、勉誠出版)
「大名の文事とその展開」(『山口県史 通史編 近世』、2022年、山口県)
『西山宗因の研究』(2024年、八木書店)

西山宗因の研究
尾崎千佳 著

本体12,000円+税
初版発行:2024年3月28日
A5判・上製・カバー装・704頁
ISBN 978-4-8406-9773-6 C3092