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出版部

近藤剛著『日本高麗関係史』要旨(日本語・ハングル)

近藤剛著『日本高麗関係史』要旨(日本語)

著者は、卒業論文以来、日本と高麗との関係史について研究を進めてきた。この間、大韓民国高麗大学校への交換留学を実施し、韓国における研究についても可能な限り学び、本書を執筆した。
その上で、日本高麗関係史研究の課題として、次の4点を挙げたい。

①日本高麗関係史の研究成果の大半は「日本からみた対高麗関係史」研究である。すなわち、日本史研究者による研究成果が大半であるということである。一方、高麗の国内外の状況を勘案した上で、対日交流の目的や意義を解明するといった「高麗からみた対日本関係史」に関する研究はほとんど行われていない。この研究を行うには、高麗と中国諸王朝(宋・遼〈契丹〉・金〈女真〉・モンゴル)の関係についても理解した上で、「高麗の外交チャンネルの一つとしての日本」という視点を持つことが重要である。

②本書が扱う10~13世紀前半の時期における関連史料は、絶対的に不足している。このことはすでに指摘されている通りだが、その中でも特に12世紀に関しては、個別具体的研究すら皆無に等しい。そのため、日本高麗関係を体系的に理解することは困難である。しかし、その零細な史料を網羅的かつ丹念に読解してきたかといえば、まだ研究の余地が残されているように思われる。

③従来、国家間の政治的関係がなかったということを理由に、関係史研究が行われてこなかったが、近年注目されている「海域アジア史」の視点から、特に境界領域の人々の交流と、それが国家間の問題にまで波及した背景を追究することは、結果的に両国関係史の深化に結びつく可能性がある。

④日本史研究者の高麗史そのものの理解および韓国の研究に対する目配せ、逆に韓国人研究者の日本史そのものの理解および日本の研究に対する目配せが必ずしも十分ではない。また、特に日本史の時期区分において高麗時代史は古代と中世をまたぐことになるため、研究が細分化された今日においては、研究者および研究に少なからず断絶があり、日本・高麗関係史研究を難化させている。
上記の問題点の克服を目指し、著者は次のような構成で本書を執筆した。

A日本・高麗関係史を高麗側の視点、すなわち高麗の国内事情や対外関係全体を理解した上で、日麗関係史の理解に努めようとする立場で考察する。具体的な研究手法として、日本に残されている日本宛の高麗外交文書(牒状)の分析を行った。行論において核となる史料については、可能な限り原本・原石・写本を蒐集して本文校訂を行い、その上で丹念な読解を加えてきた。この分析視角は、問題点①②を乗り越えることにつながる。

B国家間交流にのみ注目するのではなく、対馬島民をはじめとする九州北部地域と高麗との関わりについて多くの分量を費やしている。そして、このような境界領域の人々が国家にいかなる影響を与えたのかといった海域史研究とも重なる視点を持ち、考察を加えた。
この分析視角は、問題点③を乗り越えることにつながる。

C韓国への留学を経て、継続して韓国の研究成果を収集し、学んでいる。

この分析視角は、問題点④を乗り越えることにつながる。

以上の問題意識、分析視角をふまえ、本書は序章・終章のほか、2部8篇の論文および2本のコラムで構成されている。

第1部「高麗の外交文書および制度と対外関係」では、11~13世紀の日本・高麗関係史を検討するために必要な基本史料の再検討を行い、その過程でこれまで研究が立ち遅れていた高麗の外交文書様式や官職史、さらには対日本外交案件に関する文書行政システムについて考察する。また、高麗の対外関係に関する新たな知見も盛り込んでいる。

第一章「「大日本国大宰府宛高麗国礼賓省牒状」にみえる高麗の対日本認識」では、1079年に高麗国王の文宗が病により日本に医師の派遣を要請した一件について検討する。本件は比較的研究の蓄積のあるテーマだが、高麗が発給した外交文書の署名部分に関する言及は皆無であった。そこで国文学研究資料館所蔵の写本から本文を確定した上で検討を行い、高麗と日本の位相について明らかにするとともに、高麗が医師を日本に派遣した理由を、高麗をとりまく国際情勢から考察を試みた。その結果、請医一件の背景として、文宗朝は太祖以来作られてきた諸制度が完成をみたほか、八関会に女真・耽羅・宋商人とともに日本人も参加するなど、高麗の自尊意識が充足されていた。このような中で、高麗に来航する宋商を通じて宋との国交が回復されると、日本との関係も貿易のために高麗に訪れていた王則貞を通じて関係の改善を試みた。日本側も当初は医師派遣に前向きな反応を示していたが、派遣して効果が無ければ恥となるという意見が出されてからは消極的な意見が大勢を占め、医師の派遣を見送った。その際に問題となったのが礼賓省牒状であった。文書の首尾に関しては平行すなわち対等関係をあらわしているが、従来指摘されている「上意下達」的な形式や内容に加え、高麗の「公牒相通式」に基づいた署名様式の在り方に、高麗の自尊意識や、日本に対して上位にありたいとする高麗の対日意識をうかがうことができた。

第二章「「日本国対馬島宛高麗国金州防禦使牒状」の古文書学的検討と「廉察使」」では、1206年に対馬島に発給された高麗牒状を、宮内庁書陵部や国立公文書館をはじめとする機関に所蔵する写本を収集して校訂を行った。そして対日外交に重要な役割を果たしながら『高麗史』百官志に記載がない「廉察使」の実態に迫り、これが「按察使」であることを解明した。

第三章「「李文鐸墓誌」を通じてみた12世紀半ばの高麗・金関係」では、韓国の国立中央博物館に所蔵されている「李文鐸墓誌」の原石調査を通じて得られた翻刻文を基に、12世紀半ばの高麗と金の関係を基軸とした北東アジアの状況を考察した。その結果、12世紀半ばにおける金海陵王の南宋征伐にともなう混乱において、金の統治に不満を持つ契丹人との交流を通じて得た情報があったものの、正確な情報を求めて人を派遣するなどした高麗の外交政策を、実務官僚である李文鐸の墓誌から見出した

第四章「高麗における対日本外交管理制度」では、高麗から発給された複数の日本宛て外交文書や関連史料を利用して、対日外交案件が高麗国内のどの機関にどのような文書で伝達され、決定事項がどのように日本に伝わったのかといった問題について論じた。高麗における対日拠点となっていた金州を訪れた日本人の対応の在り方や、彼らの情報がどのように高麗朝廷に伝わり、その処遇が審議・判断されたのかといった、高麗の対日本外交管理制度について明らかにした。

 

第2部「日本・高麗間のいわゆる「進奉船」の研究」では、第1部を受けて、11世紀後半から13世紀前半における日本と高麗との関係史を明らかにした。当該期は史料的な制約が特に大きいだけでなく、日本史においては古代と中世をまたぐ時期にあたり、研究の断絶がみられる。また、モンゴル襲来以前の日本高麗関係史において重要なテーマでありながら、研究の深化がみられなかったいわゆる「進奉船」の歴史像を解明することを主要な目的とした。

第一章「12世紀前後における対馬島と日本・高麗関係」では、日本・高麗双方の対外関係史料であることは認知されていながら、これまで十分な検討がなされてこなかった『大槐秘抄』と「李文鐸墓誌」が関連するものであることを明らかにし、1160年に対馬島民が高麗に拘束された事件の真相に迫った。さらに『大槐秘抄』にみえる「制」が、日本からの高麗渡航が対馬島民に一元化されたことを受けて設けられた、彼らの渡航を制限する「渡海制」である可能性を指摘した。そして、この「制」によって安定的・定期的に対馬島民が往来する状況を受けて、高麗側ではこれを「定期的な進奉」と考え、いわゆる「進奉之礼」・「進奉礼制」を対馬島民に課したのではないかと想定した。

第二章「13世紀前後における対馬島と日本・高麗関係」では、中世すなわち武家社会の成立に伴って、対馬島の島政運営に変化が生じたことを明らかにした。具体的には、対馬島衙内部の対立、すなわち対馬の在庁官人阿比留氏に対して、武家政権の成立という新たな事態を受けて登場した大宰府使や守護人(武藤資頼)が干渉したことで、対馬・高麗間の進奉にも影響を与え、高麗から交流を拒否されるという状況が生じたことを指摘した。これに加えて承久の乱の影響が、1220年代の初発期倭寇を引き起こした可能性についても論じた。第三章、第四章で取り扱う嘉禄3年(1227)の日麗交渉において、大宰少弐武藤資頼は、対馬島の悪徒90人を斬首し、「修好互市」を要請する返書を高麗使承存に持たせ帰国させたのだが、これについても、資頼が高麗貿易の主導権を握りたかったことと、13世紀初頭以来対立が続く阿比留氏の勢力削減などを目的とした可能性もあることを指摘した。

第三章「嘉禄三年来日の高麗使について-「嘉禄三年高麗国牒状写断簡及按文」の検討-」では、2017年に九州国立博物館に所蔵するところとなった新出史料「嘉禄三年高麗国牒状写断簡及按文」の紹介・分析を行った。本史料は13世紀のもので、藤原定家の直筆ではないが、その周辺で作成された文書であること。1227年に来日した高麗使承存一行が九州に到着した様子や、武藤資頼との交渉内容について具体的に記されており、大宰府現地にいた人物でなければ知り得ない情報が含まれている。また、文書冒頭には『吾妻鏡』吉川本所載の「全羅州道按察使牒状」のうち、差出部分の一行が残されているため、『吾妻鏡』の編纂意図に関する見解も述べた。

第四章「嘉禄・安貞期(高麗高宗代)の日本・高麗交渉と「進奉定約」」では、13世紀前半に、高麗南部において問題となっていた初発期倭寇の禁圧を求めて高麗使が来日してきたが、従来1度の交渉が行われたと考えられていた。しかし、同年に2度にわたり高麗使が来日し、「進奉定約」を結ぶにいたった交渉過程を明らかにした。またそのような「定約」を締結した理由として、当時の高麗では、北方の契丹人の襲撃や東真国の成立にともなう混乱があったため、まさに「北虜南倭」の状況を打開するために使節を派遣したことを明らかにした。

コラムでは、「国書」や「外交」についての考え方、および比較武人政権論研究に関する現在の到達点を示した。

本書で得られた結論は、日本高麗関係史はもちろん、高麗対外関係史、高麗官職史、高麗古文書学といった高麗史そのものにも寄与している。さらに境界領域の人々の動向に注目した海域アジア史研究とも関連する成果を上げることができたといえる。