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立正大学・古書資料館の世界

『草山要路会註』の版本について(下)【立正大学・古書資料館の世界 5回】(小此木敏明)

1.41・42丁の改刻

前回、古書資料館が所蔵する28点の『草山要路会註』(以下『会註』)を、刊記や奥付などによって八つに分類し、刷りの古い順に番号を振った。①から④は今回も検討の対象となるため、以下に再掲しておく。

① 刊記に「京都書林 (栗山彌兵衛/村上勘兵衛)」あり 2点(A04/77, 80)
② 奥付「法華宗門書堂/京都東洞院通三條上ル町/書林 平樂寺村上勘兵衞」
1点(A04/434)
③ 奥付「法華宗門書堂/京都東洞院通三條上町/書林 平樂寺村上勘兵衞」
1点(A04/86)
④ 奥付「天保四癸巳孟春官許/文久元辛酉首冬増補再刻/法華宗門書堂/皇都東洞院三條上ル町/平樂寺 村上勘兵衞」  1点(A04/84)

①の2点と、他の26点の『会註』では、前回に述べた点以外にも大きな違いがある。それは、日灯の跋文が書かれた41・42丁が別の版木により刷られている点である。見比べると、明らかに字体が異なる部分が確認できるほか、42丁裏の刊記から「京都書林 (栗山彌兵衛/村上勘兵衛)」の記載がなくなっている。

今まで、28点は同版の本と述べてきたが、2丁分が改刻されているため、厳密には①の2点に対し、他の26点は補刻本となる。

版木は、摩滅や焼失などが原因で彫り直されることがある。『会註』がどのような事情で2丁分を改刻したのかは分からないが、その時期について考えてみたい。

まず、④に注目したい。28点の『会註』の内、奥付に年号が見られるのは④のみである。④には、文久元年(1861)の「再刻」とあるので、文久元年の段階で、すでに41・42丁が改刻されていたことが分かる。

41・42丁が改刻済みで、④よりも前に刷られたと考えられるのが、②と③である。分かりやすい判断基準として、2丁表(本文)の右側の匡郭の欠けがあげられる。④には、そこに2箇所の欠け(約4㎜と1㎝)が確認できるが、②③にはそれがない。②③を詳しく見ていけば、41・42丁の改刻の時期も、もう少し遡れそうだ。

②でなく、先に③を見ていきたい。③には、冊尾に「平樂寺書籍略目録」が附されている。略目録の最後は「女傳心抄 一冊」だが、この本は嘉永4年(1851)の刊行のようだ(NDL ONLINEの書誌データ参照)。③も嘉永4年以降に刷られたと見てよいだろう。ちなみに、この略目録は、『近世出版広告集成』4(ゆまに書房、1983年)に収録されている影印と同じものである。

②は刷りの状態などから、③よりも、もう少し古いことが分かる。例えば③には、8丁表1行目左の界線に1㎝を超える欠けがあるが、②にはそれがない。しかし②には、③のように年代を絞れそうな情報がない。そこで、平楽寺の奥付を比較してみることにした。

2.平楽寺の奥付

②と③の奥付は、文字におこすと「上ル町」と「上町」の違いしかないが、見比べると書体が異なっており、別の版木を使っていることが分かる。どちらの奥付にも年号などの情報がないため、一度彫ってしまえば、刊行年に左右されずに使いまわすことができた。そのため、これらの奥付単体からでは、刷りの年次を推定するのは難しい。しかし、平楽寺の奥付を比べることでヒントが得られる。

先にも述べたように、②と③の奥付の文面はほぼ同じだが、②の「京都東洞院通三條上ル町」の部分が他の文字に対して不自然な感じがする。その原因は、別の本の奥付と比較すると分かる。

古書資料館が所蔵する『釈氏二十四考』(A78/29)の奥付は、「法華宗門書堂」「書林 平樂寺村上勘兵衞」の部分が、②の奥付と書体も含めてそっくりである。しかし、その所在地は「京都三條通烏丸東江入町」で、記載内容が違っている。「三條通烏丸東江入町」は、東西に走る三条通と南北の烏丸通の交差点を東へ入ったところ、「東洞院通三條上ル町」は、三条通と東洞院通の交差点を北へ進んだところとなる。烏丸通の東側は車屋町通で、さらにその東が東洞院通なので、2つの奥付の所在地は別の場所を示している。

平楽寺は、文化年間(1804~1818)に二条通車屋町角から「東洞院通三條上ル町」へ引っ越したとされる(井上隆明『改訂増補近世書林板元總覧』青裳堂書店、1998年)。引越し後の所在地は明治に入っても変わらないため、「三條通烏丸東江入町」よりも「東洞院通三條上ル町」の奥付の方が新しい、ということになる。つまり、②の奥付は、『釈氏二十四考』(A78/29)の奥付を模して新たに彫られたか、所在地の部分のみ版木を削って修正したものだろう。いずれにしろ、「京都東洞院通三條上ル町」の部分が不自然に見えるのは、所在地の文字だけが、別人の筆跡をもとに彫られているためではないか。

平楽寺は、「三條通烏丸東江入町」へ実際に移ったのだろうか。詳細は不明だが、明和6年(1769)の刊記を有する『金七十論備考』は、平楽寺の所在地を「二條通烏丸東エ入町」(新日本古典籍総合目録DB https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100223699/viewer、2018年9月13日閲覧)とする。『釈氏二十四考』(A78/29)の所在地とは、「二條」と「三條」の違いしかない。ちなみに、二条通烏丸を東へ入ると車屋町通となるため、「二條通烏丸東エ入町」は、引っ越し前の所在地であった二条通車屋町角と同じ場所を指すのだろう。

もしかすると、『釈氏二十四考』(A78/29)の奥付は、「二條通烏丸東江入町」の「二」の部分を、「三」へと修正したものではないか。そう思ってみると、「三」の三画目に対し、一・二画目がかなり細いように見える。しかし、修正前と思われる奥付が確認できないため、断定はできない。

「三條通烏丸東江入町」の奥付が使用されていたのは、天保年間(1830~1844)ごろだろう。『釈氏二十四考』(A78/29)の見返しには、「日本教寺妙玄講經嗣法/龍渕院惠精日進〔花押〕」という書入れがある。「日本教寺妙玄講經嗣法」は、千葉県香取郡に所在する正東山日本寺(中村檀林)の法統を継いだことを指す。龍渕院日進が同寺の272世であったのは、弘化3年(1846)3月5日から9月2日までとされる(音馬実蔵編『旧中村檀林 正東山日本講寺歴代譜』(旧中村檀林記念奨学会、1940年、43頁)。『釈氏二十四考』(A78/29)は、弘化3年をそれほど遡らない時点で刷られたと思われる。また、同様の奥付は、天保2年(1831)再刻の『竹庵遺稿』(A08/44)や、天保4年(1833)に「日停」が「歓順院日壽」に譲るという書入れのある『宗門緊要集註』(A04/444)などにも使われている。

各奥付の使用時期が、重なることなく順番に切り替わっていくとは限らないが、「三條通烏丸東江入町」の奥付から②の奥付へと移行したのは天保末年頃ではないか。だとすれば、②の刷られた時期もそのあたりとなり、『会註』の41・42丁の改刻時期もそこまでは遡れることになる。

 

3.文久元年の奥付

④に見られた文久元年(1861)の年次を基点として、41・42丁の改刻の時期を考えてみたが、この奥付の内容によく分からない点がある。仮に奥付の通りだとすると、平楽寺が『会註』の出版許可を得たのが天保4年(1833)、版木を再度彫って増補したのが文久元年となる。

享保6年(1721)、幕府は三都(江戸・京都・大坂)での本屋仲間を公認し、享保7年(1722)から翌年にかけて、出版条例を出した。以降、出版の手順として、仲間内での原稿チェックの後、奉行所の許可を受けることになる。これは新刊だけではなく、再刻の場合も同じだった。宝暦12年(1762)の「書物問屋仲間三組申合条目」によれば、「再板物」の場合、増補があれば写本を、なければ刊行済みの版本を提出し、審査を受けたようだ(『類集撰要』46巻。彌吉光長『未刊史料による日本出版文化』3〈ゆまに書房、1988年〉所収)。

①の刊記から、『会註』は天明2年(1782)に平楽寺と栗山弥兵衛によって刊行されたと思われる。そうなると、天保4年(1833)の「官許」というのは「増補再刻」時点のもので、文久元年は単に印刷した年を表すのだろうか。しかし、そもそも「増補再刻」というのが現状と合わない。④の『会註』を見る限り、全面的な版木の彫り直しや、増補がなされた形跡はない。41・42丁の改刻を指して「増補再刻」というのは無理があるように思うが、どうだろうか。

実は、文久元年の奥付は『会註』だけに見られるものではない。古書資料館には、元政の著作である『如来秘蔵録』の版本が8点あるが、その中のA04/98には同じ奥付が見られる。この『如来秘蔵録』は、奥付の記載通りに「増補再刻」されている。A04/88の『如来秘蔵録』には、寛文8年(1668)の村上勘兵衛の刊記がある。この寛文8年版に対し、文久元年の奥付本(A04/98)は明らかに別の版であり、寛文8年版に見られない跋文も附されている。

その跋文によると、「旧刻」が火災にあったため、英園日英(1793~1856)が資金を集めて「再刻」するとある。跋文の日付は文政12年(1829)となっている。跋文と奥付の記述に従うと、文政12年の再刻後、文久元年に再び版を改めたことになるが、古書資料館の蔵書からその事実は確認できない。先ほども述べたように、天保4年(1833)に再刻の許可を得て、文久元年に増刷したと考えた方がよいのではないか。文政12年に再刻を計画し、4年後の天保4年に実現したとすれば、一応のつじつまは合う。

文久元年の奥付の内容は、『如来秘蔵録』に対してのもので、『如来秘蔵録』と同時期に刷られた『会註』にも、この奥付が付けられたとは考えられないだろうか。もしくは、『如来秘蔵録』以外にも、この奥付の記載に合致する本があるということも考えられる。

『如来秘蔵録』は元政の著作で、『会註』と同じく出版には瑞光寺が関わっている。あるいは、この「官許」や「再刻」には第4回でも述べた平楽寺の蔵版支配の件が関係しているのかもしれない。さらなる調査が必要だろう。

なお、村上勘兵衛は、寛政3年(1791)にも『如来秘蔵録』の「再刻」を検討していたようである。京都書林仲間の記録である『京都書林行事上組済帳標目』には、「一 如来秘蔵録 村上勘兵衛より再刻被致度、元板所持有無、相尋呉候様、被申出候事」(彌吉光長『未刊史料による日本出版文化』1、ゆまに書房、1988年)とある。再刻に際して権利関係でもめないように、他の書肆が出版権を持っていないかを確認している。ただし現状では、文政12年(1829)の前に、寛文8年(1668)版と別の『如来秘蔵録』があったのかどうかは不明である。

 

4.同一タイトルの複数所蔵について

第4回の冒頭でも述べたように、古書資料館の蔵書の特長として、同じ版本を複数所蔵している点があげられる。古書資料館の蔵書は寄贈本が多い。寄贈者は日蓮宗寺院の関係者や教職員となるため、必然的に、所持していた蔵書が重なることも多い。『会註』がよい例である。

『草山要路』に比べ、『会註』の数が圧倒的に多いのは、近代に入っても刷られ続け、日蓮宗の教育機関で読まれていたからだろう。古書資料館が所蔵する『会註』には、明治以降の書入れが見られるものが複数ある。中でもN17/To11の『会註』には、「昭和六年五月求/光山学院ニ於テ■■(朱滅の右に「渡辺日雄」)猊下ヨリ習ウ」という朱書きの識語が見られる。光山学院は、京都の日蓮宗寺院、大光山本国寺に置かれた教育施設だろう。渡辺日雄(1870~1953)は昭和2年(1927)に本国寺の51世となった人物である(『明治・大正・昭和日蓮門下仏家人名辞典』国書刊行会、1978年)。昭和初期に入っても、版本の『会註』が読まれていたことが分かる。

現在、和漢古書は、同じ版本だとしても1点1点を別の本として扱われる。書入れや刷りの状態などは1点ごとに異なるし、『会註』の41・42丁のように一部版木が彫り直されたり、文字の修正が見られたりすることもある。そのため、国立情報学研究所の目録システム(NACSIS-CAT)のコーディングマニュアルでも、和漢古書(和古書: 1868年以前、漢籍: 1912年以前)は一所蔵一書誌が原則である。

同版本を複数所蔵していれば、その本の書誌的な研究が行いやすい。現物を同一館内で比較することができるためである。『会註』は決して珍しい本ではないが、30点近くも所蔵している大学図書館は、古書資料館と身延山大学ぐらいではないだろうか。

図書館では、一般的な洋装本の場合、すでに所蔵している本の寄贈を断ったり、複本を廃棄したりすることがある。『会註』のような和装本でも、図書館の方針次第では、廃棄される可能性があったかもしれない。しかし立正大学では、同じ版本の寄贈を拒否することもなく、複本と見なして処分することもしなかった。もし、廃棄してしまっていれば、今回のような調査は出来なかっただろう。同版の本を多く所蔵していることは、決してマイナスではなく、図書館の特長の一つと言ってよいはずだ。

 

*本コラム掲載の画像は、すべて立正大学図書館の許可を得て掲載している。掲載画像の2次利用は禁止する。


■小此木敏明

略歴
1977年、群馬県に生まれる。
立正大学国文学科卒業。立正大学大学院文学研究科国文学専攻博士課程単位取得満期退学。
現在、立正大学図書館古書資料館専門員、立正大学非常勤講師。
〔著作・論文〕
『立正大学蔵書の歴史 寄贈本のルーツをたどる 近世駿河から図書館へ』(立正大学情報メディアセンター、2013年)。
「『中山世鑑』の伝本について―内閣文庫本を中心に」、小峯和明監修・目黒将史編『資料学の現在(シリーズ 日本文学の展望を拓く 5)』(笠間書院、2017年)。
庄司史生・小此木敏明解説『立正大学品川図書館所蔵 河口慧海旧蔵資料解題目録』(立正大学図書館、2018年)。

■古書資料館とは
立正大学品川キャンパス内に2014年に開館した専門図書館。江戸時代の和古書を中心に約4万5000冊を所蔵し、開架室では利用者が直接棚から取り出し、閲覧することができる。

http://www.ris.ac.jp/library/shinagawa/kosho.html