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立正大学・古書資料館の世界

『草山要路会註』の版本について(上)【立正大学・古書資料館の世界 4回】(小此木敏明)

1.『草山要路』と『草山要路会註』

古書資料館の蔵書の特長として、同じ版本を複数所蔵している点があげられる。今回は、特に所蔵が多い『草山要路会註(そうざんようろえちゅう)』(以下『会註』)を調査し、気付いたことをまとめてみた。『会註』は決して珍しい版本ではないが、数が揃えば色々と分かることもある。

『会註』は『草山要路』の注釈書である。『草山要路』の著者、元政(1623~1668)は、漢詩文や和歌にも秀でた日蓮宗の僧として知られている。元政は、13歳の時に彦根藩の伊井直孝に近侍したが、26歳で藩を去り、妙顕寺の日豊に師事した。33歳の時、京都深草に称心庵(後の深草山瑞光寺)を結んで隠棲すると、元政を慕い多くの弟子が集ったという(市古貞次[他]編『国書人名辞典』2、岩波書店、1995年)。

『草山要路』は、元政が門下の子弟のために書いたもので、十科(起信・決疑・持戒・衣食・住処・知識・誦経・止静・志学・指帰)によって仏教の要点を示した書である。注釈のない『草山要路』は、元政没後の貞享3年(1686)に刊行されており、古書資料館にも版本と写本が1点ずつ所蔵されている。版本の方は、貞享3年の刊記に「皇都書林 栗山弥兵衞」とある。匡郭の割れなどが目立つので、版木が彫られてからかなり後に刷られたものだろう。それほど分量はなく、序文を含めても15丁のみの薄い本である。写本の詳細は省略するが、版本を写した刊写本だと思われる。なお、延宝2年(1674)年に刊行された、元政の漢詩文集『草山集』には、十科それぞれの序の部分のみが収録されている。

『会註』の注釈部分は日灯(1642~1717)によって書かれている。日灯は、元政の遺命によって瑞光寺の2世となった人物である。『会註』は、日灯の没後から半世紀以上経過した天明2年(1782)に刊行された。刊行の経緯については、瑞光寺8世の日祐(1726~1784)が記した天明元年(1781)の序文に詳しい。その序によると、ある日、「西海」から一人の「道人」(仏道修行者)が日祐のもとを訪ねた。道人はかつて、日灯による『草山要路』の注釈書(「要路鈔」)を秘蔵し、勉学の助けにしたという。その注釈は元政の主張を理解するのに有用であったため、道人は日祐に、『草山要路』の本文の下に日灯の注を配して刊行することを勧めた。もしそれが適えば、出版費用は自分が負担するとも述べている。日祐はそれを承諾し、瑞光寺が持つ日灯の自筆本を用いて編集作業を行い、「艸山要路会註」と題して書肆に持ち込んだという。

『会註』の版本は、以下のような構成になっている。丁数は版本の丁付に従った。

元政の肖像(「艸山政和尚肖像」)と、日祐による賛 [1丁](丁付なし)
天明元年(1781)の日祐の序文(「艸山要路會註序」) 1~3丁
延宝4年(1676)の慧明(日灯)の序文(「艸山要路鈔序」) 1丁
本文 2~40丁表
日灯の跋文(「燈公跋語」) 40丁裏~42丁
天明2年(1782)の刊記 42丁裏(跋文の後)

この『会註』は、仏教の初学者用の本として広く読まれていたようだ。古書資料館が所蔵する『会註』の内、請求記号A04/86の本には、書肆の目録(「平樂寺書籍略目録」)が附されている。その中には、『草山要路』と『会註』の紹介文も載る。『会註』の売り文句には、初学の人が必ず読むべき書とある。

 

2.『草山要路会註』の刷り

古書資料館が所蔵する『会註』は30点にも及ぶ。この内の2点は中本(約18.0×12.5㎝)で、明治14年(1881)に刊行されたものの後印本だが、他の28点は大本(平均25.3×18.0㎝)で、天明2年(1782)に作られた版木を用いた同版の本である。刊記・奥付ごとに分類し、刷りの古い順に並べると以下のようになる。

① 刊記に「京都書林 (栗山彌兵衛/村上勘兵衛)」あり 2点(A04/77, 80)
② 奥付「法華宗門書堂/京都東洞院通三條上ル町/書林 平樂寺村上勘兵衞」
1点(A04/434)
③ 奥付「法華宗門書堂/京都東洞院通三條上町/書林 平樂寺村上勘兵衞」
1点(A04/86)
④ 奥付「天保四癸巳孟春官許/文久元辛酉首冬増補再刻/法華宗門書堂/皇都東洞院三條上ル町/平樂寺 村上勘兵衞」 1点(A04/84)
⑤ 奥付なし 6点(A04/92,93,94,455、SA04/2、N4/G 34)
*6点はすべて香色の無地表紙。
⑥ 奥付「京都東洞院通三條上町/書林 村上勘兵衞」 15点(A04/79,81,82,85,87,88,89,91,95,393,408、SA04/13,20、N1/G34、N4/To11)
⑦ 奥付「日蓮宗御經書籍製本發賣所/京都市東洞院通三條上町/(御用/書林) 平樂寺村上勘兵衛」 1点(A04/387)
⑧ 奥付「日蓮宗御經書籍製本發賣所/京都市東洞院通三條上ル/村上書店/發行兼印刷者 井上治作/日蓮宗各派御本山御用達/發行所(京都市東洞/院通三條上) 平樂寺書店(以下略)」 1点(N17/To11)

刷りの順番は、各資料を比較することで判断できる。すべてを詳しく紹介する余裕はないので、天明2年(1782)の初刷りに近い、①(A04/77,80)の2点を中心に述べることにしたい。判断材料として分かりやすい例は、本文の丁付14丁裏6行目の「須」、26丁表6行目の「既出」の字である。「須」と「既出」の文字がきちんと印刷されているのは①のみで、他の26点を見ると、半ば以上欠けていることが確認できる。

別の角度からも見ておきたい。①の内、A04/80は貞松山蓮永寺の旧蔵書で、見返しには「冠山百九十五世講經/邉人日遇〔花押〕」の識語が見られる。蓮永寺と日遇については、本コラムの第3回でも紹介した。蓮永寺は静岡県の日蓮宗寺院、日遇は蓮永寺の28・29世を務めた日富(1777~1840)のことである。

しかし、「冠山百九十五世」というのは、蓮永寺における肩書きではない。「冠山」は、京都府日向市の鶏冠山(けいかんざん)北真経寺のことだろう。北真経寺は、日蓮宗の僧の学校、鶏冠井(かいで)檀林が置かれていたことで知られる。日富は蓮永寺の28世に就く以前に、鶏冠井檀林の195世を勤めたようだ。その時期は、同じ蓮永寺の旧蔵書の『如来師子円絃』(A05/96)などに見られる書入れから、文化10年(1813)頃だと推測される。

また、A04/80の背には「乙丑季夏」の書入れがある。他にも何か書かれているが、補修の際に綴じ直されていることもあり、判読できない。背の書入れが日富によるものかどうか判然としないが、もし日富でなければ、おそらくは日富の前の所有者によるものだろう。いずれにしても、『会註』の刊年と日富の識語から、乙丑は文化2年(1805)の可能性が高い。その場合、A04/80は、『会註』刊行の天明2年(1782)から文化2年までの間に刷られたものとなる。

ちなみに、①のA04/77はA04/80よりもやや刷りの状態がよいが、それ以外は変わらない。こちらには、「卯辰 真成寺」の印が押されていることや、裏表紙に「真成寺所持/徒弟智教用本」と書かれている点から、卯辰山の麓に位置する石川県金沢市の妙運山真成寺の旧蔵書だと思われる。寄贈者は日蓮宗大学の教頭を務めた富田海音氏(1860~1923)で、立正大学では富田文庫と称される資料群の一つである。

 

3.平楽寺村上勘兵衛と瑞光寺

①の刊記には、栗山弥兵衛と村上勘兵衛の名前があった。栗山弥兵衛の名は見えなくなるが、村上勘兵衛は、その後も『会註』の出版に関わり続けたと思われる。⑤と⑧を除き、他の本の奥付にも村上勘兵衛の名が確認できる。

村上勘兵衛は、江戸初期から続く老舗の書肆、平楽寺の主人の名である。平楽寺については、冠賢一氏の『近世日蓮宗出版史研究』(平楽寺書店、1983年)に詳しい。三代宗信は、浄土宗から日蓮宗に改宗すると承応元年(1652)に家督を譲り、深草に平楽庵という庵を結んだ。明暦元年(1655)、同じく深草に庵を構えた元政は、村上一族と親密な関係にあったという。四代元信は元政の著作を複数出版している。

元信は、武村市兵衛・八尾甚四郎・山本平左衛門の3書肆とともに法華宗門書堂を名乗り、寛文9年(1669)から多くの日蓮宗学・天台学の書籍を出版した。他の書肆が衰退すると、平楽寺は単独で法華宗門書堂の名称を用いることを容認された。それは、元文5年(1740)のこととされる。

江戸時代には、出版の権利(板株)を有することを蔵版といった。通常、蔵版者は版木を所持するが、寺院などが蔵版者となる場合は、書肆に版木を委託し、製本や販売などを請け負わせた。その書肆を蔵版支配人という。

冠氏は、文化14年(1817)の「瑞光寺御蔵板控」や嘉永7年(1854)の「瑞光寺蔵板支配一札」を根拠に、平楽寺が瑞光寺から支配人を命じられたのは、文化14年以前のこととする。これらの資料には『草山要路』と『会註』の記載があるとされるが、二書の扱いは異なる。『会註』は瑞光寺が権利を有する蔵版物だが、『草山要路』の版木は平楽寺の所有物だという。

先に見たように、『草山要路』の刊記には栗山弥兵衛の名があった。おそらく『草山要路』の版木は、栗山弥兵衛から平楽寺に渡ったのだろう。古書資料館に所蔵はないが、『草山要路』の版本の中には、栗山弥兵衛の刊記と、平楽寺の奥付が両方見られる本や、栗山弥兵衛の名前が削られて平楽寺の奥付のみが見られる本もある(萩尾是正編『深草元政上人墨蹟』大神山隆盛寺、2016年、43頁)。

①の刊記にあるように、栗山弥兵衛は、当初『会註』の刊行にも関わっていた。平楽寺と瑞光寺が密接な関係にあったことは確かだが、最初から元政の関係書籍がすべて平楽寺に任されていたわけではないようだ。

平楽寺は、現在も平楽寺書店の名で出版業を営んでいるが、創業者一族はすでに経営から手を引いている。11代村上勘兵衛は、60歳の大正2年(1913)に井上治作氏へ家業を譲った。井上氏は、13歳で法文館に見習いとして入り、14年間出版業に従事した経歴を持つ人物である(出版タイムス社編『日本出版大観』出版タイムス社、1930年、「人と事業 京都篇」220頁)。⑧の奥付には、村上勘兵衛でなく、井上治作の名があった。⑧は大正2年以降、井上氏の代になってから印刷されたものだと分かる。

 

*本コラム掲載の画像は、すべて立正大学図書館の許可を得て掲載している。掲載画像の2次利用は禁止する。


■小此木敏明

略歴
1977年、群馬県に生まれる。
立正大学国文学科卒業。立正大学大学院文学研究科国文学専攻博士課程単位取得満期退学。
現在、立正大学図書館古書資料館専門員、立正大学非常勤講師。
〔著作・論文〕
『立正大学蔵書の歴史 寄贈本のルーツをたどる 近世駿河から図書館へ』(立正大学情報メディアセンター、2013年)。
「『中山世鑑』の伝本について―内閣文庫本を中心に」、小峯和明監修・目黒将史編『資料学の現在(シリーズ 日本文学の展望を拓く 5)』(笠間書院、2017年)。
庄司史生・小此木敏明解説『立正大学品川図書館所蔵 河口慧海旧蔵資料解題目録』(立正大学図書館、2018年)。

■古書資料館とは
立正大学品川キャンパス内に2014年に開館した専門図書館。江戸時代の和古書を中心に約4万5000冊を所蔵し、開架室では利用者が直接棚から取り出し、閲覧することができる。

http://www.ris.ac.jp/library/shinagawa/kosho.html