『近代歌舞伎年表』と国立劇場開場50周年(玉川大学 法月敏彦)
『年表 大阪篇』編纂に内容を絞ると、その作業は大雑把にいって以下の3点に集約することができる。
(A)番付など一次資料の収集・翻刻。
(B)既存年表、劇場記録、雑誌類、日記類などの資料から興行記録の抽出・原稿化。
(C)新聞記事など様々なデータの収集・カード化・『大阪興行略年表』への転記。
最後の新聞記事データ収集が私に課せられた業務であり、具体的には、前任の宮本瑞夫氏が少し始められていた明治期大阪の新聞記事から歌舞伎を含む芸能記事のすべてを収集することだった。
毎回、国立国会図書館に赴き、丹念にマイクロフィルムで新聞を読んで、芸能記事を探し、その記事をカードに書き写し、調査室に戻ってから、『略年表』の当該興行の欄にデータの概要を書き記す、という地味な作業を行った。
ある日、いつもと同じような作業を行っていた時、ちょっとした「変化」に気がついた。それは、(A)と(B)の作業で確認できていなかった興行記録、つまり『略年表』空欄への記載が増えてきたという事実である。
当時の新聞記事は、事実無根の記事も存在したので、当初は興行記録を補足する意味合いが強かった。例えば、番付面では正確にわからない「初日」や「千秋楽」が確認できるからである。
「間もなく初日」という予告記事はあまり信用できないが、「一昨日初日」という過去形の記事は信じられる、という具合である。
長い間ひとりで悩んだ末、今まで気付かなかったこのような新聞記事の新しい価値、つまり新聞も一次資料になるのではないか、ということを藤尾さん、服部さん、松井さんに話した。
明治以後の歌舞伎興行記録は、伊原敏郎編『歌舞伎年表』等に掲載されているが、東京が主であり、大阪の記録は少ない。その欠を補うというのが今回の『近代歌舞伎年表 大阪篇』の筈である。そして、その編纂は、収集された番付類の一次資料を基に行うという流れが存在していた。私の、新聞記事からの記録収集という新しい提案は、今から考えると、相当に松井さんたちを悩ましたのかもしれない。何故なら、その頃はまだ新『年表』の出版計画が立っていなかったからである。つまり、新聞記事収集はある意味で非常に大事な作業ではあるかもしれないが、予算措置ができるかどうか不明だったのである。
しかし、やがて新聞記事収集の人員も増え、小さな調査室には似つかわしくないほど立派なマイクロリーダー・プリンターが設置され、マイクロフィルムなども年を追って購入され、国立国会図書館や東京大学の明治新聞雑誌文庫(現法学部附属近代日本法政史料センター)に赴かなくても、記事の検索ができるようになって現在に至っている。そして『略年表』のブランク部分が、それらの新出資料で埋められていった。このような調査環境の充実の裹に、松井さんや服部さんたちの大きな尽力、会議でのご苦労があったと思う。
『近代歌舞伎年表 大阪篇』上梓
86年3月、おそらく私など若輩者の知る由もない多難のすえ、八木書店の絶大なご協力によって、ようやく『近代歌舞伎年表 大阪篇』の第1巻が産声を上げた。数えきれないくらい多数の皆様が長年にわたって収集、調査、編集した歴史的な事業の扉が開かれたのだ。頂いた一冊のずっしりとした重みを感じながら、しっかり抱きしめた。
この難事業を後世に伝える文章は余り多く残されていないかもしれないが、服部幸雄さんが日本経済新聞1976年12月10日の文化欄に寄稿した「アシで作る演劇興行史 ◇二十万点越す資料集め東奔西走◇」は、その多難な現実を丁寧に説いていて、今拝読しても頭の下がる思いである。そして、この記事の重要な点と考えられるのは、「郷土の演劇史について関心を持つ人が出て、意欲的にこの分野の資料を集め始められるところが増えてきた。」という記述だと思う。資料収集の旅が、全国各地の郷土愛を呼び覚ましたのだ。
様変わりしてしまった村や町の一隅に、かつて劇場があり、先祖たちが芝居に興じていた昔日が語り継がれ始めたのであろう。これこそが、この難事業によって生じた副産物だと思われる。
そして、『近代歌舞伎年表 大阪篇』全9巻は、平成7年/1995年度毎日出版文化賞特別賞をいただいた。有難かった。
*本コラムでご紹介いただいた書籍の詳細、ご購入は以下から。
<関連書>
法月 敏彦(のりづき としひこ)
1951年、静岡県生まれ。
日本大学芸術学部大学院修士課程修了
国立劇場嘱託を経て、調査事業委員。現在、玉川大学教授・共立女子大学講師
〔主な著書〕
・『近代歌舞伎年表 大阪篇』(共編著、八木書店、1985年)
・『増補浄瑠璃大系図 上・中・下・別巻』(日本芸術文化振興会国立劇場、1993年)