短冊・トラウマ―『誹諧短冊手鑑』刊行に際して:後編 (奈良大学名誉教授 永井一彰)
本手鑑の資料的意義は、ほぼ次の三点に尽きる。
その一は、貞門・談林期の俳諧に関わった人々の第一級の筆跡資料であるということである。芭蕉が江戸談林宗匠の一人としてしか扱われていないという事実が象徴するように、俳諧史観が十分に成熟していない時代の限られた期間に、古筆鑑定に関わる人物が独自のネットを使って、公家・大名・旗本・地下・神官祢宜・門跡・釈氏・家中衆・連歌師・女筆・能書・古筆・俳諧点者・町衆といった様々な階層を縦断して集中的に蒐集したものであるから、後世のコレクターが蒐集整理した短冊帖にありがちな偽物が紛れ込む余地は全くと言ってよいほど無い。一人一人について確認は出来ていないが、おそらくこの手鑑に収録される半数以上の人物は、短冊が紹介されたことは未だないのではないか。
二つめは、本手鑑収録短冊の裏書及び札の情報である。殆どの短冊に蒐集当時のものと思われる裏書を有する。編集子はそれを基に札を作成し、帖に短冊と共に貼って整理しているのであるが、それは機械的に行われているのではなく、裏書記述後の新情報も丹念に拾い、また誤りなども修正する。それら裏書・札が伝える短冊染筆者の素性についての情報は、他の資料と照合してみると驚くほど詳細・正確で臨場感がある。貞門・談林期に俳諧に関わった人々の素性については分からないことが多いのであるが、本手鑑と『貞門談林俳人大観』などを併用することによって数多くの染筆者の素性が明らかになって来る。その具体的な事例も、本書解説で御覧いただきたい。
三つめには、今回は考察に及ぶことが出来なかったが、短冊の装飾ということも今後の大きな研究課題となる。俳諧短冊の装飾が華美を極めた時代のものがこれだけ纏まっている例は他には無く、その問題を考えて行く基本資料となることも間違いない。
以下は裏書ならぬ裏話二話である。本手鑑入手一覧後、その資料としての重要性に鑑み、私が企図したのが影印本としての刊行であった。が、最初の悩みは裏書きを読むために帖から短冊を剥がすという作業である。本手鑑は短冊をベタ貼りにせず、後に剥がすこともあることを想定して四隅だけを糊付けするという方法を採っている。従って剥がすこと自体はさほど困難ではないのだが、しくじって短冊を損傷することが身が震えるほど恐ろしい。が、剥がさなければ裏書きを読むことは不可能に近い。意を決してやってみると、案ずるほどのこともなく、これは何とかうまく行った。次は撮影の問題である。八木書店編集部本書担当の金子道男氏から提案のあったのは、天理時報社の高性能スキャナーによる撮影であった。原典を手許においたままカメラ撮影をしてもらうのが所蔵者にとっては一番安心なのだが、スキャナーとカメラでは画像の解像度が全然違うくらいのことは私にも分かっていた。原典を一箇月ほど印刷所に預ける、これもけっこう決断を要したのである。が、絶対的な信頼を置いていた金子氏、それに時報社の実績を頼み、全てを委ねた結果かような高精細画像でお届けすることが出来たことを何よりも喜びとしたい。
家蔵『誹諧短冊手鑑』は、引き出しの奥からよたよたと這い出してきた四十年来のトラウマと共に私の手許を離れた。染筆句・署名・裏書・札の誤読修正を含め、今後の活用については読者諸賢に全面的にお任せをしたい。私はけなるがっておられるに違いない雲英先生を偲びつつ、剥がした短冊一枚一枚を、帖に戻すことをゆっくりと楽しみたいと思う。
〔初出:『日本古書通信』第1035号(2015年10月号)〕
*『誹諧短冊手鑑』の詳細、ご購入はこちらから
https://catalogue.books-yagi.co.jp/books/view/1433
<元順の短冊二点(左・中)と裏書き(右)>
なぜ筆蹟が違う?そのわけは裏書きで判明!
「堺住人 南惣兵衛方由入道元順筆 寛五集撰者 点者 さかい 寛五集撰者 中風気故左ノ手ニて書
南惣兵衛方由入道」
→「中風気味なので、左手で書いた」
*本書がメディアに紹介されました!
- 江戸初期の俳諧短冊 – 古筆鑑定家秘蔵 永井奈良大名誉教授が発見
<奈良新聞(2015年8月22日)>
*『誹諧短冊手鑑』の詳細、ご購入はこちらから
https://catalogue.books-yagi.co.jp/books/view/1433
永井一彰(ながいかずあき)
1949年、岐阜県生まれ。
滋賀大学教育学部卒。
大谷大学大学院文学研究科博士後期課程満期退学。
奈良大学名誉教授。博士(文学)。
〔主要著書〕
『蕪村全集第2巻連句』(2001年、講談社、分担執筆)
『藤井文政堂板木売買文書』(日本書誌学大系、2009年、青裳堂書店)
『月並発句合の研究』(2013年、笠間書院、平成26年度文部科学大臣賞受賞)
『板木は語る』(2014年、笠間書院、平成26年度日本出版学会賞受賞) など