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出版部

短冊・トラウマ―『誹諧短冊手鑑』刊行に際して:前編 (奈良大学名誉教授 永井一彰)

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話は四十年以上も前に遡るのだが、大学院博士後期課程に進んだ折、私は経済的な自立を迫られることになった。奨学金が当る目途もなく、選択としては高校の非常勤講師しかなかった。某私立男子高校の面接で「では四月から来ていただきましょう」ということになり、求められたのが健康診断書の提出である。その足で高校に隣接する指定の個人医院へ立ち寄って診察を受けたのであるが、診断書は書けないと言われて、愕然とした。理由は栄養失調である。その顕著な症状である艶を失った蒼白い顔色をしていたに違いない私はさらに蒼白となり、職を得られなかった場合この症状がさらに進行するのは必定である、そうなることが分かっていて診断書を書かないのは医師としてまた人として許されるのでしょうか、何よりも講師が決まりかけていた高校サイドが困るのではないか、結果指定医が取り消さるという事態も生じるのでは、というようなことを、その時の私は縷々切々嫋々と訴えたのだと思う。そうして何とか診断書は発行され、今は名前も憶えていないその医師のおかげで私は栄養失調状態から辛うじて救出されたのであった。

そんな院生時代に、古本屋を回る時間的・経済的な余裕がもとよりあろうはずもなく、短冊は言うまでもなく古書画・和本類は一点も買っていない。その後奈良大学へ奉職し、取り敢えず栄養失調になる憂いの無くなった私は、ぼちぼちと寺町などの古本屋を回って歩くようになった。世はバブルの絶頂期へ向かおうとしているころで、古書市場にも物があふれ、一週間おいて再訪すると目当てにしていた品物は既に売れ新商品が並べてあるという有様であった。かたっぱしから買っておけば良かったと今にして後悔したりもするのだが、栄養失調体験がトラウマになっていた当時の私としてはそういうところへどうしても踏み込めず、研究資料になりそうなもの、またちょっと眺めて楽しめそうなものを、懐具合と相談しながらチマチマと集めていたのである。その頃の私が固く心に決めていたのは「短冊にだけは手を出すまい」ということであった。貞門談林期の一枚数万円・数十万円もするような俳諧短冊を蒐集することなどとてもとても現実的なこととは思えず、店頭の五百円均一の箱を漁り、それらしいものを拾って嬉々として帰宅するのが関の山だったのである。

かくして平穏に月日は流れて行く。が、ある時、私の固い決意を打ち砕く出来事が起きた。それは「短冊研究会」の発足である。この会は、小林孔氏の提唱になるもので、顧問として文藻堂主松尾正雄氏を迎え、今は故人となられた雲英末雄先生の関西行に合わせて日程を組み、がんこ二条店を会場として催されたもので、雲英先生が亡くなられるまでに数回あったと記憶する。会員三名それぞれが新収短冊を持ち寄り、「良い」とか「違う」とかあれこれと好きなことを言って、顧問の決裁もそこそこに酒になるのが常であった。愚妻の言を借りれば「見せっこ」だったのかもしれないが、実に楽しい会であった。衆知の如く雲英先生は名だたる俳諧資料のコレクターであられた。雲英コレクションを超えることはとうてい不可能だが、せめて俳諧短冊で先生をけなるがらせてみたい、という不遜な思いが悪魔の囁きのように私の心を占めるようになったのは、たぶんその頃ではなかったか。トラウマは、取り敢えず机の引き出しの奥深く放り込むことにして、その後俳諧短冊をまとめ買いする機会も何回かあり、少しはけなるがっていただけたような気もするのだが、今回八木書店から影印刊行することが出来た『誹諧短冊手鑑』を入手したのは平成二十二年のことであるから、先生には御覧いただくことが出来なかった。そのことが、悪魔に魂を売ってしまった私としてはこの上なく悔やまれるのである。

さて、雪・月・花三帖から成る本手鑑は、貞門・談林の主要俳人をほぼ網羅し、七五六名八〇四枚の俳諧短冊を収録する。古筆九代了意が作成した人名録「寛文頃誹諧宗匠并素人名誉人」の典拠であること、現姿が古筆十代了伴によって調製されていることから、古筆の家に文字通りの鑑定用手鑑として伝来して来たものというのが私の見立てである。短冊にはオレは言うまでもなくスレ・ヤケ・ムシが殆ど見られず、大げさな言い方をすれば昨日染筆したかのように美しいのも篋底深く秘蔵されて来たことを物語る。もともとの成立は、寛文から天和にかけての二〇年ほどの間に、古筆鑑定に関わる何人かによって蒐集され、誰であるかは特定出来ないものの某編集子の手によって元禄に入る直前に元姿調製が行われたと考えられること、本書解説を参照されたい。

(後編につづく)

〔初出:『日本古書通信』第1035号(2015年10月号)〕

*『誹諧短冊手鑑』の詳細、ご購入はこちらから
https://catalogue.books-yagi.co.jp/books/view/1433


*本書がメディアに紹介されました!


永井先生写真永井一彰(ながいかずあき)
1949年、岐阜県生まれ。
滋賀大学教育学部卒。
大谷大学大学院文学研究科博士後期課程満期退学。
奈良大学名誉教授。博士(文学)。

〔主要著書〕
『蕪村全集第2巻連句』(2001年、講談社、分担執筆)
『藤井文政堂板木売買文書』(日本書誌学大系、2009年、青裳堂書店)
『月並発句合の研究』(2013年、笠間書院、平成26年度文部科学大臣賞受賞)
『板木は語る』(2014年、笠間書院、平成26年度日本出版学会賞受賞) など