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出版部

薄田泣菫と近代画家 ―満谷国四郎・鹿子木孟郎・鏑木清方― (岡山大学 西山康一)

*西山先生の前回コラム「近代の書簡翻刻の苦心と喜び」はこちら*

『薄田泣菫宛書簡集』第3巻は「文化人篇」ということで、思想家・演劇人・出版人など様々な分野の人物の書簡からなるのですが、その中でも画家の書簡が意外と多くあります。泣菫文庫全体で見ても画家の書簡は多く、これは一つには泣菫が詩集を出したり、新聞編集に携わったりする中で、挿絵を担当する画家とやり取りをする――そういうビジネスライクな理由によるところもありますが、反面泣菫の出身地である岡山という土地が、実は多くの画家と縁の深い土地だから、ということもあるかと思います。

実際、この「文化人篇」に登場する岡山県出身者は4名いますが、いずれも画家です(もちろん、岡山県以外の出身の画家も何人か登場しますが)。実はここだけの話、私自身、決して美術の分野に詳しいわけではないのですが、岡山の大学に勤めているという縁もあって、ちょっと岡山出身の画家の書簡を読んでいたところ、気がつけば画家の書簡全般を私が担当することになった……という次第です。

その意味で、今回の「文化人篇」において、私の担当した中でまず紹介したいのが、やはり岡山県出身の画家、満谷国四郎と鹿子木孟郎と泣菫の交流です。それは彼らの下積み時代からはじまる、そして終生かわらない、深く長い付き合いとなります。

その経緯を簡単に紹介しますと、まず泣菫が岡山中学(現・岡山県立朝日高校)に入った際に(明治24)、先輩に満谷がいました。しかし、そこではあまり親しくはなかったようです。というのも、満谷は明治21年入学、当時の尋常中学の修業年限は5年で、彼は4年時に中退する。つまり、満谷は泣菫の入学年に中退して上京したようです。

その後、泣菫も岡山中学を2年で中退し、京都に行った後さらに上京するのですが(明治27)、そこで住み込んだ漢学塾・聞鷄書院という処で、まず鹿子木と知り合いになります(鹿子木は明治25年に上京していた)。そして、そこに上京して鹿子木と同じ画塾・不同舎にいた満谷が入ってくる(不同舎の指導者・小山正太郎が、漢学も画業修行の一つとして指導していたという)――こうして、3人の終生の交わりが始まることになります。特に満谷と泣菫とは後に、彼の甥で一時期養子でもあった満谷三夫さんと泣菫の長女・まゆみさんが結婚して、親戚関係にもなります。

実は、この3人の中で泣菫が一番若く明治10年生まれ、満谷と鹿子木はともに明治7年生まれなのですが、彼らの書簡を見ていると、不思議とどうも年下の泣菫が一番、敬意を払われていたように思われます。泣菫の人格のなせる業か?……いずれにしろ、彼が東京のいる岡山県出身者の中で、重要な役目を果たしていたことを想像させます。

たとえば、今回の「文化人篇」に載る鹿子木書簡1で、鹿子木は「小生ハ実二歳ヨリ言ヘバ君ニ長スル数年ナレドモ精神的修養ニ至リテハ君カ半ハニモ不足ルナリ」と書き、また同書簡2でも「君ヨ前ヨリ後フリ向キテ時々小生ヲ招キ玉へ」などと……もう、どちらが年上だかわからなくなるほどの、最大級の尊敬の仕方なのです。

次に、満谷とは親戚関係でもあることから書簡数も多く、また彼の豪放な性格もあってほとんど話し掛けるような、気の置けない二人の交流が窺えるのですが、その中でも「文化人篇」収録の満谷書簡でいうなら、たとえば書簡5では、冒頭に「御手紙ニヨリ一寸直しマシタ」という言葉があります。これは、泣菫の代表的詩集『白羊宮』(明治39年)において、満谷と鹿子木がその装幀と挿絵を担当する――そこにも既に3人の信頼関係が窺えるのですが、特にこの書簡では泣菫が満谷の挿絵か装幀に注文を付けて、それに応じて満谷が手直ししたことが窺えます。さらに続きでは「今度ハ君ノ名吟ノ意ハ多少伝ヘタルベシ」と、泣菫の詩を「名吟」と認め、それにふさわしい絵を自らも何とか作成しようとしている姿勢が窺えるのです。

また、同書簡の後半部では、泣菫が上京するのなら「画室ヘ戒厳令ヲシカネバナルマイ」とも……ちょっとおどけた中にも、泣菫に対する敬意がやはり見て取れる書簡といえるでしょう。このように、鹿子木・満谷の書簡からは、ビジネスライクな仕事の話だけでなく、その奥に3人の間に存在する深い信頼関係、特に泣菫に対する尊敬の念が窺えるのが特徴的で、たいへん興味深く感じました。

そのほか、画家の書簡で面白く感じたのは、鏑木清方の書簡(清方は岡山の出身ではなく東京神田の生まれですが)。清方といえば人物画、特に美人画で有名ですが、その鏑木清方の書簡2――当時泣菫が編集者として携わっていた大阪の帝国新聞の小説欄の挿絵を清方が担当していた、その時の書簡なのですが、そこでは

それと一つの御相談は木版画の汚くなる事 夕刊は朝刊よりも一層はげしく候が為に、なるたけ写真版を用ひ候も「夕霧」(江戸期に大阪で活躍した遊女・夕霧太夫のことで、それを取り上げた小説の挿絵を清方は担当していた――西山注)は時代情緒を助くるため木版を主として使用の筈に候へど 例の汚なさにては二三日跡の新聞に見えたる九条男爵夫人(武子・大正3美人の一人――西山注)の蛍狩の帰途泥田に堕ちられ候といふ記事も思ひ合され、夕霧もまた泥まみれの姿を日に数万の人の前にさらすことかと情なく存じ候

とあります。当時の新聞印刷技術の状況が窺えるとともに、清方が新聞挿絵に対しても強いこだわりを持って作成していたことがわかり、この頃から美人画家としてのプライドがあったことが窺えます。

私は美術に関しては詳しいことはわからないのですが、このような画家たちの、出来上がった絵からは直接見て取ることのできない、しかしその製作の背後に確かに存在した〝内なる思い〟が見て取れる書簡は、研究的にも価値のある書簡ではないでしょうか?――ぜひ、美術研究家の人たちにも、この「文化人篇」を手に取ってもらって、御意見を伺ってみたいところです。

〈『倉敷市蔵 薄田泣菫宛書簡集 文化人篇』刊行に際しての記者会見原稿より転載〉

*記者会見の内容は下記の新聞記事でご確認ください*


【好評既刊】『倉敷市蔵 薄田泣菫宛書簡集 文化人篇

※『薄田泣菫宛書簡集』全3巻の詳細はこちら


 

nishiyama西山康一(にしやまこういち)
慶應義塾大学文学部卒業
慶應義塾大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学
現在、岡山大学大学院社会文化科学研究科准教授
〔主な著作〕
『芥川龍之介と切支丹物――多声・交差・越境』(共著・宮坂覚編、翰林書房、2014年)
『スポーツする文学――1920-30年代の文化詩学』(共著・疋田雅昭ほか編、青弓社、2009年)
「「幻想」/「迷信」としての〈中国〉」(『文学』岩波書店、2002年)
「〈視覚〉の変容と文学」(『文学』、岩波書店、2001年)