近代の書簡翻刻の苦心と喜び (岡山大学 西山康一)
『倉敷市蔵 薄田泣菫宛書簡集 文化人篇』が、このたび刊行されました。
これで同書簡集は「作家篇」「詩歌人篇」に続き全3巻となり、完結となります。
編集に携わった身としては、とりあえず肩の荷が下りてほっとしています。
実際、ここまでたどり着くのは、たいへんな道のりでした。
倉敷市の呼びかけにより、薄田泣菫文庫調査研究プロジェクトチームが結成されたのが、今から7年前の2009年。
大学の研究者など8名から構成され、薄田泣菫文庫の本格的な研究が始まりました。
しかし、最初しばらくの間は、泣菫の遺族から倉敷市が寄贈を受けたこの膨大な資料を前に、それをどう扱ってゆけばよいか、決めかねている有様でした。
とりあえずチームのメンバーで分担して翻刻することを決めたものの、なかなか集まって各自の読んだものを確認することもできず、またそれをどう公開していけばよいのかもわからずに、結局足並みがそろわないまま、ただチームのメンバー各自が個人的に興味のあるところを少しずつ調査・分析して、公開するような状況が続きました。
しかし、4年ほど経ってようやく光明が見えてくる――八木書店から書簡集を刊行してもらえることが決まって、毎年1巻ずつ公刊してゆくことになり、チーム全体が刊行という目標に向かってまとまる。
そうして今回、書簡集の完結を無事迎えられた次第です(とはいうものの、この毎年1巻必ず出さなくてはいけないというのも、よい面も当然ありますが、研究者の側としては大いなるプレッシャーで、実は毎年の原稿締切の直前にはひいひい言ってやっていましたが……)。
また、私個人に関して述べますと、泣菫文庫の資料との出会いは2007年まで遡ります。
前年に岡山大学に赴任した私は、不覚にも泣菫の残したこれらの資料が地元にあることを関知していなくて、2007年末に泣菫文庫中の芥川龍之介の原稿が新聞報道されて初めてその存在を知り、あわてて倉敷市に調査させてくれと申し込んだのでした。
それ以来、上記のプロジェクトチームにも加えてもらい、泣菫文庫全体を調査・分析に携わってきたわけですが、かつて作家たちが直にその手で触れて書いた書簡・原稿類――俗にそれを“なまもの”と呼びますが――そうした“なまもの”に接することができるということは、何はともあれ文学研究者であればこんな幸せなことはありません。
私も当初、このような“宝の山”が埋っていた岡山の大学に赴任して来た、その我が身のめぐりあわせに驚き、幸運に感謝したものです。
しかし反面、研究者としてこの“宝の山”に触れたが最後、同時に大きな責務も降りかかってきます。すなわち、その書簡・原稿類に書いてあることを解読して、最適な形で世に公開しなくてはいけない。それは研究者なのだから当り前のことだともいえましょうが、しかし今回のように資料の向こうには倉敷市の期待が存在する……となると、それはやはり重くのしかかるものを感じずにはいられません。
しかも、明治~昭和期の文章といえども、もちろん所謂くずし字で書かれています。
そもそも私自身は、大学・大学院でくずし字を読むトレーニングをそれなりに積んだとはいえ、正直仕事で使えるほど読めたわけではありませんでした。
特に書簡というのはもうほとんど手に負えず、本当に困ってしまいました。
くずし字に詳しい同僚の先生に相談した際には、「そりゃあ、山登りに不慣れな者が、いきなりエベレストに挑むようなものだ」と笑われたりもしました。
というのも、原稿や記録類ならば文脈や背景がある程度把握しやすいため、多少読むのが難しい字が出てきても推測を働かせて文字を特定することができる。
しかし、書簡というのは親しい者同士のやり取りだったり、あるいはやり取りを重ねている中のたった1通だけしか伝存されていないような手紙を読んでいかないといけなかったりする。
つまり、そこでは文面に表れてこない、省略されている情報も多く、文脈・背景がつかみづらい。
また、そもそも清書したり、きれいな字で書こうという意識があまり働かなかったりする――ということで、読むのが他のもの以上に難しくなってくるのです。
そのため、書簡を読む時に大事になってくるのが、書き手が当時何をしていたかが詳しくわかる年譜ということになります。
それにより、文脈や背景を推測していくわけです(時に書簡自体がいつのものかわからないことも多々ありますが、それでも年譜を眺めているうちにいつ頃の書簡か、だんだんとわかってくることもあります)。
とはいえ、実はその点で一番苦労したのが、今回の「文化人篇」でした。
作家や詩人歌人に関しては、私が文学研究者ということもありますが、年譜がそれなりに整っている。
しかし、今回の「文化人篇」で私は画家を多く担当したのですが、画家に関しては有名な画家ならばいざ知らず、あまり知られていない画家になると、途端に年譜がなかったり、あったとしても粗雑なものしかなかったり、時には年譜ごとに書いていることが食い違っていたりすることもありました。
(ちなみに、そこで困り果てていた私を救ってくれたのは、やはり八木書店。同書店によるWEB版『美術新報』は、当時の画家たちの動向を詳細に伝えており、検索もできるということで、専門外の私にとってはとにかくありがたい……これ以上書くと場所が場所だけに、趣旨が変わってしまいそうなのでこの辺にしておきますが、原稿完成までに時間のあまり許されていない今回の仕事において、これに救われたのは事実です。)
だが、そのような私でも、プロジェクトチームのメンバーほか様々の人々に支えられ、7・8年この資料に携わっているうちに、何とかくずし字にも慣れ、調査も少しずつ進み、書簡集のための翻刻文も積み上がってゆきました。
また、その中で上記の苦労も吹き飛ぶような、貴重な経験もたくさんさせてもらいました。
たとえば、自分の研究対象でもある芥川龍之介の新出書簡に出会った時。
同じく芥川研究者でプロジェクトチームのメンバーでもある庄司達也さんと、泣菫文庫の芥川書簡を一つ一つ確認してゆくうちに、岩波書店の芥川全集の最新版にも載っていない書簡を見つけた時には、2人で思わず祝杯を――といっても、その時は倉敷市役所の中だったのでお酒で乾杯するわけにもゆかず、とりあえずその場はコーヒーとケーキでお祝いしましたが……。
その書簡については、別のところで報告もしましたし、新聞等で取り上げられたこともあるため、特にここでは詳しくは述べませんが、芥川と泣菫さらには新聞メディアとの関係を考える上で貴重な資料だと思います。
また、既に全集等に載っている書簡であっても、たとえば全集で「私は…」と紹介されているものが、実物の書簡を見ると「私を…」と読め、実際その方が文意も通る、といったものもありました(実はくずし字では「を」と似た「は」もあるので、ひょっとすると読み間違えたのかと…)。
研究では全集の表記をもとに、そこから分析を始めるのが普通でしょうが、そもそも全集だって多くの場合、作家本人ではなく誰かの〈翻刻〉によって成り立っている面もあるわけで、安易に全集に頼りきってしまうことの怖さを改めて事実として肌身で感じる、そんな貴重な経験もしたのでした。
このような経験をしながら、私たちプロジェクトチームのメンバーの苦労と努力、喜びとともに、貴重な情報のいっぱいつまった書簡集がようやく完成しました。
一人でも多くの人に、手に取ってもらえたら嬉しいです。
(岡山大学 文学部 准教授:西山康一)
西山康一(にしやまこういち) 慶應義塾大学文学部卒業 慶應義塾大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学 現在、岡山大学大学院社会文化科学研究科准教授 〔主な著作〕 『芥川龍之介と切支丹物――多声・交差・越境』(共著・宮坂覚編、翰林書房、2014年) 『スポーツする文学――1920-30年代の文化詩学』(共著・疋田雅昭ほか編、青弓社、2009年) 「「幻想」/「迷信」としての〈中国〉」(『文学』岩波書店、2002年) 「〈視覚〉の変容と文学」(『文学』、岩波書店、2001年)