史料纂集古記録編 第211回配本 勘仲記7
本日、高橋秀樹・櫻井彦・遠藤珠紀校訂『史料纂集古記録編 第211回配本 勘仲記7』が納品となりました。
蒙古襲来前後の朝廷の様子や、持明院・大覚寺両統迭立など、重要な事件を目撃した実務官人の克明な記録を自筆本により翻刻したものです。
■史料纂集本勘仲記の特長
・自筆本を底本とする最善の本文を提供。
・断簡や逸文、日記本文が現存しない部分の日記目録も収録。
・墨継ぎや文字間隔、追筆・挿入・抹消に見られる兼仲の筆録意識を読み取るなど、最新の研究成果に基づく、最善の本文を提供。
■勘仲記とは
藤原(広橋)兼仲(一二四四―一三〇八)の日記。日記名は勘解由小路中納言兼仲の称に由来する。別名『兼仲卿記』。国立歴史民俗博物館に自筆本九十巻が所蔵されているほか、若干の断簡や逸文が伝わっている。日野流の広橋家は文筆の家として朝廷に仕え、兼仲の父経光の 『民経記』など、代々日記を残した。
本記は将軍惟康親王の京都送還と久明親王の将軍宣下・関東下向など鎌倉幕府と朝廷との関係、持明院・大覚寺両統迭立、鎌倉後期の公家訴訟制度の実態と整備、摂関家の家政、畿内寺社や在地の動向、詩文・神楽、仏教説話的な言説等々、政治・経済・宗教・文化・芸能、さらに宮廷儀式と多方面にわたる十三世紀後半の一級史料である。
とりわけ二度の蒙古襲来とその前後の京都の状況を知る重要な記事を多く含み、朝廷・寺社がこの事態にいかに対処したかを看取できる。
■藤原兼仲
父は経光、母は藤原親実の女。正嘉二年(一二五七)十四歳で叙爵し、治部少輔や摂関家の政所別当などを勤めた。兄兼頼が弘安三年(一二八〇)死去した後、家を継いで四十一歳で蔵人となり、弁官や亀山上皇の院司にもなった。正応五年(一二九二)に蔵人頭から参議となって公卿に列し、永仁元年(一二九三)には権中納言となったが、翌年、これを辞し、延慶元年(一三〇八)六十五歳で死去した。
■勘仲記7の紹介
本冊には、正応元年(一二八八)十月から同五年(一二九二)九月までを収録しました。正応二年七月・九月、同四年十月の記事や正応四年・同五年の目録は、今回初めての翻刻となります。
この間の朝幕関係の特筆すべき記事として、鎌倉の宮将軍の交代劇があります。正応二年九月、幕府は朝廷に使者を遣わし、将軍惟康親王の帰京と後深草上皇皇子の将軍就任を申し入れてきます(同九日条)。後深草上皇がこれを受け容れたことで、久明親王の立親王の儀が執り行われ(十月一日条)、続いて元服(六日条)、征夷大将軍宣下(九日条)があり、翌日、六波羅より鎌倉に発ちました。
正応二年、記主の兼仲は、蔵人頭所望を後深草上皇と関白藤原家基に申し入れました(正応二年十月十五日条)。しかし、左中弁に転じ(同十七日条)、正応三年には右大弁、さらに左大弁となりますが、正応四年まで蔵人頭になることはできませんでした。
一方、兼仲は、正応五年、藤原資宣の出家・死去により日野流藤原氏の氏長者となり、氏寺日野法界寺で行われた日野八講を主催しました(九月二十三日条)。
【目次】所収:正応元年(1288)10月~正応5年(1292)9月
本体13,000円+税
初版発行:2021年11月25日
A5判・上製・函入・250頁
ISBN 978-4-8406-5211-7 C3321