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出版部

イエズス会が刊行した文法書を読む―『天草版ラテン文典巻一全釈』刊行の弁―

「天草版ラテン文典」とは

「天草版ラテン文典」(1594年天草刊)は、イエズス会が刊行したキリシタン版日本語文典3種の最初の文典であり、ラテン文法の枠組みで日本語を論じた初の文法書である。

という教科書的な一行なら、今やchatGPTでも書けそうだが、「天草版ラテン文典」の原文に即して、その日本語文法記述に接するとなると、話は、そう単純ではない。

現存本は僅かに2本で、その一本のエボラ(ポルトガル)本のフルカラー影印(写真版)は、2012年に八木書店から公刊した処であるが、その後、原文の精読に基づいて著わされた論考を、殆ど見ないのは、残念である。
「天草版ラテン文典」が、日本語文法関連の記述を行なうのは、全170丁のうち、巻一の69丁までなので、日本語文法学史の観点からは、大した関心も喚起し得なかったものであろうか。例えば、「準体」の日本語学史上初の記述が本書にある事は、編者の一人の黒川茉莉の2020年の論文まで、全く着目されなかったと言ってよかろう。

刊行の意図

この度刊行した『天草版ラテン文典巻一全釈』(以下『全釈』)は、そのイエズス会初の日本語文法記述である本書巻一ラテン語本文翻刻に、英訳・和訳・注釈(英文・和文)を加えたものである。(原本の姿は、上記2012八木書店刊フルカラー影印を御覧頂きたい)。

天草版ラテン文典 巻一全釈

図1『天草版ラテン文典 巻一全釈』

『全釈』出版の意図は、その日本語関係の巻一部分を、ラテン語原文に即して精読するための、便宜を提供する事にある。
つまり、単純に、何卒「天草版ラテン文典」をお読み下さい、という事に尽きる。

英訳も、ラテン語の構文が、判然となる事を願って加えたものである。
ラテン語では母音の長短が、大きく意味に関わる事がある。例えば、causa(短音・主格、「理由が」)は、causā(長音・奪格、「理由に拠り」)と異なる。

原文には、こうした長音記号は(原則としては)付いていないので、本書21オのaddita particulaは、短音・主格で「付いている助詞」なのか、additā particulāと奪格で、「助詞が付いているので」なのか、文脈に拠って、母音長短を補いつつ読まねばならない。これは、この時代の、濁点の無い日本語写本・版本に、濁点を補読しつつ読むのと同じ事で、原文の解釈に依存し、編者の原文の解釈の結果を表示する事になる。

我々は、翻訳だけでなく、こうした格関係に就いても、我々の解釈を明示する事で、本書の原ラテン語の精読に資する事を期した。
勿論、それは我々編者の、浅学が露呈するに過ぎぬと、識者の失笑を買う処もあるであろう。しかし、本書が刊行後400年余を経ても、なお精読の対象とならず、上記の(chatGPTにも出来そうな)教科書的一行の言及のみが繰り返されるのであれば、失笑は、もとより覚悟の前である。

「天草版ラテン文典」特有の問題

現代のラテン文法は、圧倒的に、古典期ラテン語の文法である。

「天草版ラテン文典」の依拠した、原典マノエル・アルバレスの「ラテン文典」(1572、リスボン初版)は、イエズス会の指定した標準文法で、対象は同じく古典期ラテン語の文法だが、文法の書き方自体が中世なので、用語などには、独特のものがある。

この点には、既に、Schad(2007) A lexicon of Latin grammatical terminologyの様な便宜の参考書があるので、

futurum(未来形)にmandativus(要求法)の用法を認めるのは、Diomedes由来である事、
interrogativum accidens (状況疑問詞、quantus [how much], qualis [what kind of]など)は、accidensが、文法書ではconsequential (accido [happen])の意で用いられる事に拠る事、

等は、みなSchadが教えて呉れる。

しかし、専門論著の支援を仰がねばならないものもある。

エレガントelegansはその一つで、これを現代風に「典雅に」「優美に」と訳出したのでは、

本書19オ Cum verò prohibemus, ne facias, ne feceris, ne dixeris, eleganter vtimur futurō negatiuō indicatiui, vt Subecarazu, yǔbecarazu, suru coto arubecarazu: deinde propriis vocibus Suruna, suru coto nacare, xezare, yuazare, etc.
我々が、「それをするな」、「決してそれをするな」、「それを言うな」と何かを禁じる時、エレガントには、(日本語)直説法未来の否定形を用いる。例:「すべからず」、「言うべからず」、「する事あるべからず」:然し乍ら、本来の語形は「するな」、「することなかれ」、「せざれ」、「言わざれ」等である。

等の理解に窮する。

「すべからず」が「するな」よりも「エレガント」なのだそうだが、これは「典雅」「優美」では片付かない。

これには、泰斗Eustaquio Sánchez Salor先生の御論考El concepto de elegantia de la lengua en el Renacimiento (2010、ルネサンス文法に於けるエレガンテの概念に就て)に拠って、「当代としては破格でも、権威ある著作に典拠のある用法」、つまり「典拠のある破格」(古格など)と見て、ベシ・ナカレの様な漢文訓読体を「エレガント」とし、スルナ・セザレ等の当時一般の口語を、prorpius(本来の)として対照させたものと見れば、エレガントは、「口語に対する文語」と了解出来よう。これは、イエズス会の日本語文法に一般で、通事ロドリゲスの「日本大文典」(1604~1608)、「日本小文典」(1620)のeleganteも、和歌・連歌・軍記などに見える、文語体を称したものと見れば了解出来る。

原典アルバレス「ラテン文典」の諸本

「天草版ラテン文典」は、マヌエル・アルバレス「ラテン文典」に基づくものだが、このアルバレス文典は、初版(1572)出版後に、簡略版「小文典」(初版1573)が多数出版され、本来の「大文典」と、簡略版「小文典」とが並行して刊行され続ける。
「天草版ラテン文典」に強い影響を及ぼしたのは、イベリア半島で出版された「小文典」スペイン語適用版(1578)・ポルトガル語適用版(1583)と目される。「天草版」には、coepi等の「欠陥動詞」が62オ・67ウに重出するエラーの様に、それらのイベリア系小文典(に生じた事故)に遡らなくては、理解出来ない箇所がある。
アルバレス「大文典」は、1575年の改訂版(ベネチア)以来、本文が安定しており、1859年に至っても、パリのイエズス会が、1575年版に記事連番を付け、索引・注釈(至便)付きで復刻した程である。
一方、「小文典」は、イエズス会が、布教各地の言語に適応させる事を公認(1591)したので(「天草版ラテン文典」も、その適応版の一つ)、多様な版本が多数出版され、その全容は、ようやく2022年(初版1572の450年紀)に、Rolf Kemmler博士の総目録(bibliografia alvariána)が編纂された(印刷中)処である。
本書では、そのKemmler博士の御助力に拠り、その最新の成果も取り入れて、アルバレス「小文典」の適用版の一つとしての「天草版ラテン文典」の解読に資する様に努めた。

本書は、上述の通り、初版(1572)の450年紀を記念して2022年に刊行予定であったが、豊島が、2022年7月に不慮の病を得て、刊行が6箇月遅延した事を深く遺憾とする。遅延にも拘わらず、出版の助成延長をお認め頂いた日本学術振興会、リハビリを辛抱強くお待ち頂いた出版社八木書店にも、深くお礼申し上げる。
最後に、もう一度、何卒「天草版ラテン文典」を御一読下さい。

図2-1 アルバレス「ラテン文典」諸本 「天草版ラテン文典」の原著Manuel Álvaresのラテン文典De institutione grammatica libri tres(文法教授に就ての3冊の本)のうち、編者の手元にあって、「全釈」編纂に当り参照したもの。

 

図2-2「大文典」 ars maior 改訂初版 (1575, Venezia) 判型quarto(4折) (上の写真の中央) 印記 BIBL. COLL UNIV. ANTONIANUMは、Pontificia Università Antonianum (Roma)図書館か。 本書は、quarto in 8s (8丁を1 quire (gathering)とするquarto)で、octavoと見誤り易いが、紙の漉目が横なので、漉目が縦のoctavoとは、明瞭に区別可能。 「大文典」にはquartoが多く、「小文典」はoctavoが殆どで、 「天草版ラテン文典」は、「小文典」なのにquartoという、稀な例外である。 この、1575ベネチア版は、「大文典」初版にあった様々な問題に手を入れた改訂版で、安定本文として、後世まで復刻が続く。

 

図2-3「大文典」 ars maior。上記1575 ベネチア版に、記事連番・注釈・索引を付けた復刻:パリ・イエズス会(1858 パリ) (上の写真の最左) アルバレス文典には、章節番号が一切無く、参照に不便だが、本書は、全てのセクションに連番が付けてあり、便利。 用例の出典(Priscianus, Quintilianus等)を探索して示した注釈が有益で、索引も至便なので、アルバレス文典の解読には必携。 「天草版ラテン文典」のリバイバルとなった、意欲的な先行研究の山沢孝至(2006)天草版『ラテン文典』研究序説―概論的考察― Kobe miscellany (神戸大学)30でも、参照されている。

図2-4 「小文典」 ars minor スペイン語適用版(1579、Caesar Augustae (Zaragoza)) 判型octavo(8折) (上の写真の最右) 扉上の書き込み:Es del Collegio de la Comp[ani]a de IHS de Monforte de Lemos (スペイン、ガリシア地方、モンフォルテ・デ・レモスのイエズス会コレジョ[旧]蔵) 
本書は、「小文典」のスペイン語適用版の改訂再版である。 「小文典」スペイン語適用版初版は、1578年、Lisboa, Antonius Riverius (Antonio Ribeiro)刊。 当時は、スペイン異端審問のため、文法書のスペインへの輸入が禁じられており(実質的にはNebrija文法の強制)、リスボン刊の改訂版初版が輸入出来ず、アルバレス文典を標準文法と定めたイエズス会は、スペイン国内で印刷すれば「輸入」にはならない、というアクロバティックな理屈で、これをスペインのサラゴーサで印刷させて、流通させた。 
初版のエボラ公共図書館蔵本(Séc. XVI 552)は、著者Álvares直筆の修正が入った著者手沢本である。 当該書は、イエズス会ポルトガル本部旧蔵本で、 He a ultima ediçam. He ẽ Castellano; Leua algua auãtaje à de portugues do mesmo ano. (これが最新版であり、スペイン語版である。同年刊のポルトガル語版よりも良い処がある)とし、 当時のポルトガル管区長Sebastião Moraisが、「将来のために良く保存せよ」(guardar se muito bem pera o diante)と命じたとの書き込みが残る。 Sebastião Moraisは、ポルトガル管区長の後に、初代日本司教に任ぜられ、赴任中にモザンビークで客死した。 上記のエボラ本の書き込みにもo Bispo de Japam (日本司教)と書かれている。 Sebastião Moraisは、マデイラ諸島(ポルトガル)Funchal出身で、つまり、Álvaresと同郷なので、恐らく両者は面識があったのだろう。 原著者と面識のある初代日本司教が、「この1578年スペイン語版が良い」と推奨した事は、(彼が来日を果たさなかったとはいえ)、日本でのラテン語教育への影響が無視出来ない。 尚、「porutugues do mesmo ano」(同年刊のポルトガル語版)という、その版本は、未発見である。

図3 共通動詞(De verbis communibus)とあるべき丁の柱に「De verb. defec.」(Deverbis defectivis 欠陥動詞)と記入。これに、「天草版ラテン文典」が惑わされて、coepi等を、「共通動詞」(61v)・「欠陥動詞」(67v)の二箇所に重出させた。他の「小文典」系列に、この重出は無く、「天草版ラテン文典」独自のエラーである。

 

アルバレス「大文典」の16世紀版本は、今でも、入手はさほど困難ではないが、「小文典」は、滅多に古書市場に出ない。 上掲の1579サラゴーサ版本が、この20年で得た、唯一の16世紀刊「小文典」である。安価な、よく使われる本ほど、古書では入手しにくい、というのは、ここでも然りである。

【引用文献】

黒川茉莉(2020)ロドリゲス『日本大文典』の品詞particulaとartigoに就いて(「訓点語と訓点資料」145)
Sánchez Salor, Eustaquio(2010) El concepto de elegantia de la lengua en el Renacimiento (id. Nec mora nec requies –selectión de articulos de Eustaquio Sánchez Salor, Universidade de Extremadura) 所収に拠る)
Schad, Ssamantha (2007) A lexicon of Latin gramamtical terminology (Fabrizio Serra Editore, Pisa/Roma)

 

【筆者】豊島正之(とよしままさゆき)

上智大学名誉教授。言語学
〔主な著書〕
『天草版ラテン文典 巻一全釈』(共編著、八木書店、2023年)
『キリシタン版ぎやどぺかどる 本文・索引』(清文堂出版、1987年)
『ひですの経』(共著、八木書店、2011年)
『天草版ラテン文典』(共編著、八木書店、2012年)
『必携 古典籍古文書料紙事典』(共著、八木書店、2011年)
『キリシタンと出版』(編著、八木書店、2013年)
『キリシタン語学入門』(共著、八木書店、2022年)