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やさしい茶の歴史

鎌倉時代中期の煎茶法と点茶法の茶――やさしい茶の歴史(十三)(橋本素子)

醍醐寺で回し飲みされた茶

鎌倉中期には、平安前期時代以来の唐風喫茶文化、茶を煮だして飲む「煎茶法」の茶と、平安時代末期以来の宋風喫茶文化、抹茶に湯を注いで飲む「点茶法」の茶が併存していた。

寺院の法会や修法などでは、平安時代から引き続いて、煎茶法の茶を使用することが見られた。
たとえば、建長8年(1256)5月27日付「北斗御修法用途注文案」は、醍醐寺で北斗供を修法した際の物品等の費用を書き上げたものである。その中には、

茶を煎じて供えよ。そして御仏供を分ける際に、リストに記載がない場合には、煎じた茶が出される。つまり、中間・大童子・非番法師中、それぞれのグループに各一杯ずつ出される。

とある。(『醍醐寺文書』『鎌倉遺文』7997号)

つまり北斗供のような修法では、参加した僧侶には、供物として使用された物品が配分されていた。どの役割の僧侶にどの仏供を配るかは、おおむね決まっていたようで、それを書いたリストが存在していた。しかしそのリストから漏れる者たち、すなわち中間・大童子・非番法師中などの顕密寺院社会の下層位の者たちには、それぞれグループごとに、茶が一杯ずつふるまわれたのである。おそらくその一杯の茶は、それぞれグループ内で回し飲みされたものと見られる。鎌倉時代中期には、茶はいまだ希少品で貴重品であった。そのため、茶を配分される者たちにとっては、たとえ回し飲みで一口ずつであったとしても、茶を飲むことが出来る貴重な機会となっていたものと見られる。

煎茶法の茶+点茶法の茶

一方で、供物の茶に、点茶法の茶も見られるようになる。すなわち、弘長2年(1262)『薄草子口決』には、次のような問答が見られる。

問う、茶の方はどのようなものであるか。
答う、御口にいわく「本儀は末茶を水に和してこれを用いる。あるいは仏器に粉だけを盛る。あるいは、茶葉を煎じたものを用いる。最略は、葉を摘んでこれを用いる。(称名寺聖教281函1、『武家の都 鎌倉の茶』神奈川県立金沢文庫 2010年、48頁)

つまり供物として使用される茶は、いちばんあるべき姿としては点茶法の茶(液体の抹茶)を用いるべきであるが、粉末状の抹茶を供える場合もあった。また煎茶法の茶(煮出し茶)を使用する場合もあった。そればかりか、最も簡略な方法としては、茶の葉を摘んでそれを供える場合があった。この「生葉」を摘んで供えるだけでよいというのには、いささか驚くが、とにかく、鎌倉時代中期の顕密寺院の供物には、宋風喫茶文化の点茶法の茶が加わるようになったことが確認できるのである。

出土した鎌倉中期の茶臼

さて宋風喫茶文化、すなわち抹茶に湯を注ぐ点茶法の茶を飲む場合には、茶葉を茶臼で挽いて粉末にする必要がある。

現在、日本への宋風喫茶文化の将来は、12世紀前半まで遡るものとされている。それは1977年以降の博多遺跡群の発掘調査により、唐房(中国人商人屋敷)跡の12世紀初頭の地層から、現在も美術史や考古学で「天目」と称されている中国産の朝顔形の黒釉碗が出土したためである。ただし、史料に「天目」の語が登場するのは、鎌倉末期に留学僧の主な留学先が天目山に変わった後の、南北朝期以降である。それまで史料に見える語は、「盞」あるいは「建盞」である。よってこれらの器物を「天目」とすることには、見直しを迫りたい。

しかも、現在「天目」と称している朝顔形の黒釉碗(以下、朝顔形黒釉碗)だけをもって点茶法の喫茶を証明することは、難しいところもある。なぜならば、これは後世の記録になるが、賢甫義哲『長楽寺永禄日記』永禄8年(1565)正月22日条には、「天目」で酒を飲んだとする記載があるように、酒・水・湯・煎茶法の茶などの他の飲料を飲む可能性があるからである。

そのため、12世紀初めの博多において点茶法の茶を飲んだことを示す同時代史料がある、出土した朝顔形黒釉碗の内側に茶筅を使った場合に残る擦過痕がある、朝顔形黒釉碗と同じ遺跡で茶臼が出土する、などの条件が必要になる。しかし、12世紀の初めの博多において抹茶を点茶法で飲んだとする史料はないし、茶臼の出土は15世紀まで下がるという。

ちなみに、13世紀初めの栄西の『喫茶養生記』には、茶臼の記載が見られない。そのためこれまでは、さしたる根拠もないまま、中国の宋で茶臼を使っていたから日本でも使っていただろうとする説、茶臼ではなく平安時代から使用していた薬研を使って粉末にしていただろうとする説などが見られた。

なお、日本側の史料における茶臼の初出は、鎌倉時代後期の『金沢文庫文書』まで下がる。

しかし、この鎌倉中期までの茶臼の空白期間は、出土史料によって埋めることができそうである。茶臼の研究をされている桐山秀穂氏は、伝世した茶臼も出土した茶臼も、その形状等の特徴により時代編年ができる可能性を示した。その結果、平安京左京八条三坊七町跡から出土した茶臼は11世紀後半頃の中国産の砂岩製であり、相国寺境内の近代の地層から出土した茶臼は、13世紀の中国産の花崗岩製であり、六波羅蜜寺境内の15世紀の柱穴から出土している茶臼は、同じく13世紀の中国産であるとされたのである。(桐山秀穂「中世前期の茶臼」、永井晋編『中世日本の茶と文化 生産・流通・消費をとおして』勉誠出版 2020年)これらの成果によって、鎌倉時代前期・中期にも、輸入された中国製の茶臼が存在し、これらを使い点茶法の茶を飲むことができた可能性が強くなってきたのである。

【今回の八木書店の本】
峰岸純夫校訂『史料纂集 長楽寺永禄日記』2003年


橋本素子(はしもともとこ)
1965年岩手県生まれ。神奈川県出身
奈良女子大学大学院文学研究科修了
元(公社)京都府茶業会議所学識経験理事
現在、京都芸術大学非常勤講師

〔主要著書・論文〕
『中世の喫茶文化―儀礼の茶から「茶の湯」へ―』(吉川弘文館、2018年)
『日本茶の歴史』(淡交社、2016年)
『講座日本茶の湯全史 第一巻中世』(茶の湯文化学会編、思文閣出版、共著、2013年)
「宇治茶の伝説と史実」(第18回櫻井徳太郎賞受賞論文・作文集『歴史民俗研究』、板橋区教育委員会、2020年)
「中世後期「御成」における喫茶文化の受容について」(『茶の湯文化学』26、2016年)