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やさしい茶の歴史

鎌倉時代中期の喫茶文化 その二——やさしい茶の歴史(十二)(橋本素子)

西大寺大茶盛について

今回は、鎌倉時代中期に活躍した僧侶で、茶との関りが深いとされる、叡尊と忍性を取り上げる。

叡尊といえば、西大寺で行われる茶を使用する2つの年中行事を創始した人物として知られている。

ひとつは西大寺大茶盛である。寺伝によると、暦仁2年(1239)正月、年始修法、すなわち修正会(しゅじょうえ)の結願日に、叡尊が、鎮守八幡宮に献呈した茶の余服を、僧侶にもてなしたことに始まるとされる。現在は顔が埋まるほどの大茶碗で抹茶を飲むことで知られる。なお、かつては大茶碗で回し飲みをしていたものの、コロナ禍以降は各服点てに変わっている。これについては、すでに永島福太郎氏「西大寺大茶盛」で、大茶盛は戦国期から始められたもので、その後盛衰があったこと、大茶碗は江戸中期から使用されたことが指摘されている。

光明真言土砂加持大法会大黒天供の供茶について

いっぽう、現在10月に行われている光明真言土砂加持大法会の前日2日に行われる大黒天供では、煎茶が供茶されている。

まず光明真言土砂加持大法会であるが、文永元年(1264)9月4日より七日七夜、叡尊がこれを執行したことにはじまる仏教儀礼である。(『西大寺光明真言縁起』)光明真言とは、23の梵字と最後の休止符合計24の梵字からなり、これを唱えれば、過去の一切の罪障を除滅することができ、死者で地獄・餓鬼・修羅に生まれ変わったものでも、光明を及ぼし、諸罪を除き、西方極楽浄土に往かせることができるとする。土砂加持は、土砂を真言で加持すれば、その土砂自体が光明真言となり、滅罪生善の力を持つことができ、これを死者や墓にまくと罪障が消滅し極楽にいけるとされる。

大黒天供は、この法会の前日大黒堂において、光明真言会中の俵粮が満たされるように、西大寺の僧とその年の綱維が出仕して行うものである。この際に大黒天に煎茶が供茶されている。大黒天供がいつから行われているかは不明である。(『奈良市西大寺の光明真言会(仏教法会)の調査概法報』財団法人元興寺文化財研究所 1980年)

同時代史料にみる叡尊と茶

このように、現在での西大寺では、叡尊を創始とする二つの法会で、茶が使用されている。しかし西大寺大茶盛は戦国期からはじめられたものであり、大黒天供の創始時期は不明である。

しかし、叡尊と茶の関係を示す同時代史料が2点ある。

まず弘長2年(1262)『関東往還記』に見える「儲茶」の記載である。同書は、叡尊が金沢実時および北条時頼の招きにより鎌倉に下向・滞在した際の記録である。その下向の際、近江の国守山、柏原宿、駿河国麻利子宿、清見関、見附、相模国逆尾(酒匂)宿、懐嶋宿で「儲茶」=茶を儲ける、とある。従来は、叡尊が宿に集まった信者に対し受戒を行い、茶も振る舞ったとされてきた。しかし、石田雅彦氏が日程を詳細に検証してこれを否定し、叡尊は己の滋養強壮のため茶を飲んだものにすぎないものとされた。すなわち、当時61歳の叡尊は、長旅に備えて奈良から持参した茶を、宿で折々に飲んだのであった。

次に、正応3年(1290)8月、同月25日に入滅した叡尊の遺品を書き上げたリストが残り、その中に「茶少々 芒」とある。(『金沢文庫文書』、『鎌倉遺文』17425)これも叡尊が日常的に茶を飲んでいたこと、死の間際までそれが習慣化されていたことを示すものにすぎない。

つまり、叡尊と茶を結ぶ史料としては、長旅に際し滋養強壮のため茶を飲んだことと、日常的に茶を飲んでいたことを見るのみである。残念ながら、法会などでの使用を示す史料は残されていない。

忍性が作ったとされる境内茶園

このように、叡尊が日常的に茶を飲んでいたとすると、その茶の入手先はどこからか。残念ながら直接的にそれを示す史料には恵まれない。

ただ、少し時代は下がるが、正和5年(1316)11月から12月にかけて、近隣の秋篠寺による大川・忍熊郷及び西大寺寺本への狼藉を受けて、その状況を西大寺が注記した絵図が残されている。この絵図は西大寺で作成され、正和5年に六波羅探題に提出されたのち、西大寺に戻された。さらに文保元年(1317)には院庁へ提出されたのち、西大寺に返却されている。(『鎌倉時代の喫茶文化』茶道資料館 2008年)

この絵図の中に「茶園」が見える。但し作成時に書かれたものではなく、後筆と見られている。また後世の書写によるものではあるが、文保元年7月日付「秋篠寺凶徒等悪行狼藉条々」のなかで、

忍性の御沙汰として、植えられた茶園と松等数百本を、秋篠寺の凶徒等が悉く切り払ってしまい、忽ち荒野になってしまった。

とある。(奈良県立図書館蔵『西大寺旧記七冊之内惣方官符宣幷西大寺訴状幷襲来記』)。よって絵図の中の「茶園」は、院庁に訴えた際の文保元年に加筆されたものではないか。

またここで西大寺境内茶園は、忍性の指示でつくられたものとされている。ちなみに忍性は延応元年(1239)に叡尊の弟子となり乾元2年(1303)に入滅しているので、この文書の内容が事実ならば、叡尊存命中に境内に茶園があった可能性もあろう。

もちろん茶園の茶は、叡尊個人のためだけでなく、寺内の法会等で使用されたことであろう。ただ、それがそのまま現在残る法会の濫觴と結びつくかどうかは別問題であり、今後も同時代史料をもとに、慎重に検討していく必要があろう。

【今回の八木書店の本】
『西大寺光明真言縁起』(『続群書類従第二十七輯下 釈家部』[オンデマンド版] 2013年)

 


橋本素子(はしもともとこ)
1965年岩手県生まれ。神奈川県出身
奈良女子大学大学院文学研究科修了
元(公社)京都府茶業会議所学識経験理事
現在、京都芸術大学非常勤講師

〔主要著書・論文〕
『中世の喫茶文化―儀礼の茶から「茶の湯」へ―』(吉川弘文館、2018年)
『日本茶の歴史』(淡交社、2016年)
『講座日本茶の湯全史 第一巻中世』(茶の湯文化学会編、思文閣出版、共著、2013年)
「宇治茶の伝説と史実」(第18回櫻井徳太郎賞受賞論文・作文集『歴史民俗研究』、板橋区教育委員会、2020年)
「中世後期「御成」における喫茶文化の受容について」(『茶の湯文化学』26、2016年)