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やさしい茶の歴史

鎌倉時代中期の喫茶文化 その一——やさしい茶の歴史(十一)(橋本素子)

今回は、鎌倉時代中期、貞応元年~弘安10年(1222~1287)の喫茶文化の様子を見ていこう。鎌倉中期は、承久の乱後、前半は比較的政治的に安定していたものの、後半には元寇があり、次第に政権も社会も不安定になる時代である。

相変わらず喫茶文化の様子を示す史料の点数自体は少ないものの、その内容は豊かである。

『因明短釈 法自相 紙背文書』(興福寺文書)の中には、鎌倉在住の尊栄から、奈良興福寺の勤蓮房に送られた、茶の贈答に関わる4通の書状が見られる。

まずは、人物関係を把握しよう。

書状の差出の尊栄は、鎌倉幕府からのスカウトを受け鎌倉の寺院に赴任した関東下向僧と見られる。書状からは、所属する寺院名はわからない。しかし、『吾妻鏡』正嘉元年(1257)大慈寺再建供養で行われた曼荼羅供の職僧30口のうちに「阿闍梨尊栄」が見える。この尊栄が同一人物ならば、大慈寺、あるいはそれに匹敵するような、鎌倉将軍家が建立した鎌倉の大寺に所属していた僧侶と考えられよう。

一方の充所の勤蓮房は、興福寺東菩提院中臈である。両者はかつての同僚であった可能性が高い。

その奈良の勤蓮房から鎌倉の尊栄へ、茶が毎年送られていた。では、その詳細を見ていこう。

まず建長元年(1249)と見られる書状(『鎌倉遺文』7153号)は、追伸部分のみが残る。意訳すると以下になる。

追伸 年々の茶のなかで、今年の茶葉は特に最も品質の良いものであった。一寺(尊栄が所属する寺院)の僧侶たちが、茶が来たことを知ると喜んで尊栄のところにやって来て、「飲みたい」と所望されるので振る舞っていたら、わずか2、3か月で飲み尽くしてしまった。だから来年は茶を6斗に増やしてもらいたい。去春も常一法師が鎌倉に下向する際に、茶の運送費用として銭350文を下行した。明年はわざわざ人夫を立てて奈良から鎌倉に運ばせるつもりである。

これを見ると、鎌倉の尊栄の奈良の勤蓮房からの入手方法は、「つて」によるものであった。しかも、入手の頻度は年に1回であり、飲み尽くしたならば翌年を待たねばならなかった。そのため、書状の年がどのくらいの量であったかわからないが、翌年には6斗に増やすことを依頼している。また茶を運ぶ際にも「つて」を使い、鎌倉に下向する僧侶にその運送を依頼していたのであった。

次の年月日未詳の書状(『鎌倉遺文』7707号)には、

また茶一石ばかりをお願いしたい。以前の様に、早々に建仁寺に送ってくださるならば、来月7月の頃、大番役のついでに鎌倉に運んでもらうつもりである。

とある。ここで7153号の6斗と7707号の1石を比べれば、10斗=1石であるため、7707号の方が増量されている。このことから7707号の方が、後の時代に書かれたものと見られる。

また、茶を運ぶ際には、奈良から京都の建仁寺に送り、そこから京都大番役の任期を終えた御家人が鎌倉に下向する際に、運んでもらう手はずになっていた。ここにみえる建仁寺は、開山は栄西、開基は鎌倉二代将軍源頼家という、いわば鎌倉幕府の京都における出先機関のようなものであった。そのため、奈良から鎌倉へ茶を運ぶ際の中継地として利用されたのであった。

さらには、勤蓮房が鎌倉に下向する際には、自ら茶を運んでもらうことを依頼していた。すなわち、年未詳6月25日付書状(『鎌倉遺文』7709号)には、

このたびの鎌倉下向のついでに、奈良にある茶を持ってきてほしい。

とあり、同じく年月未詳22日付書状(『鎌倉遺文』7710号)でも

秋に鎌倉へ下向されるが、その際に山茶を持って来てくださると思っている。

とある。このように、勤蓮房自らが鎌倉へ下向する際に、自ら、といっても実際には下の者に、茶を運ばせる場合もあったのである。

以上のことから、次のようなことが言えよう。

鎌倉時代中期、茶はいまだ希少品であった。茶の生産は、奈良や京都といった中央で行われていたが、地方鎌倉では、まだ始まっていなかったものとみえる。そのため、茶は、中央から地方へ流通していた。この際、茶の入手方法は「つて」によるものであった。また茶の運送方法も、下向する僧侶、あるいは大番役を終えて下向する御家人など、鎌倉の大寺に所属する僧侶としての「つて」を最大限に使ったものであった。

茶を知らない庶民

鎌倉時代前期に続き中期も、奈良の興福寺から鎌倉の大寺の僧侶へと贈与されたように、喫茶文化は寺院社会にとどまっていた。弘安6年(1283)無住『沙石集』巻第七の「或る牛飼」の話でも同様である。

或る牛飼が、僧侶の茶を飲んでいる所に出会い「それは、どのようなお薬でしょうか。わたくしたちがいただくことができるでしょうか」といった。すると僧侶は「これは三の徳がある薬です。容易いことです、飲ませましょう」といった。続けて「その徳というのは、一つには座禅の時眠たくなるが、これを飲めば一晩眠られなくなる。一つには食べ過ぎたときに飲めば、消化されて身が軽くなり心もすっきりする。一つには男性機能が抑えられる薬である」という。すると牛飼は「だったら要りません。昼は終日宮仕えして、夜こそ足もぐんと伸ばして寝たいものです。それなのに眠れなかったらどうしようもありません。またわずかに食べた少しばかりのご飯が消化されてしまったら、お腹がすいてしまい、どうしたらいいのでしょうか。また男性機能が抑えられたならば、女童部がそばへやってきても相手ができなくて、宥めすかして衣類を洗濯させるということができなくなってしまうではありませんか」といったという。

このあとこの話は、仏教説話ゆえに「得失はその時々で変わるものである」との批評で締め括られている。この中で牛飼は、庶民の代表であり、茶を知らない設定になっていた。すなわち鎌倉時代中期、茶はいまだ寺院社会にとどまり、庶民層には受容されていなかったのである。


橋本素子(はしもともとこ)
1965年岩手県生まれ。神奈川県出身
奈良女子大学大学院文学研究科修了
元(公社)京都府茶業会議所学識経験理事
現在、京都芸術大学非常勤講師

〔主要著書・論文〕
『中世の喫茶文化―儀礼の茶から「茶の湯」へ―』(吉川弘文館、2018年)
『日本茶の歴史』(淡交社、2016年)
『講座日本茶の湯全史 第一巻中世』(茶の湯文化学会編、思文閣出版、共著、2013年)
「宇治茶の伝説と史実」(第18回櫻井徳太郎賞受賞論文・作文集『歴史民俗研究』、板橋区教育委員会、2020年)
「中世後期「御成」における喫茶文化の受容について」(『茶の湯文化学』26、2016年)