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柳澤吉保を知る

柳澤吉保を知る 第14回: 六義園(二)―桂昌院の楽しんだプレ六義園―(宮川葉子)

はじめに

前田綱紀の上地(あげち、幕府没収地)拝領から丸8年。

元禄15年(1702)7月5日、吉保設計の駒込の別墅(べっしょ)の庭園は完成した。
和歌の浦を写し取り、筑山や泉水をふんだんに配置、野趣あふれるそれであった。

これを正式に六義園と呼ぶのは3箇月半後の10月21日。

この日、当地に赴いた吉保は、「様々の名所を設」け、「園を六義園」と呼んだ(『楽只堂年録』第4・30頁以下) 。

ここまでがコラム第13回で述べたところである。

当該コラムは、六義園と名付けられる前の、プレ六義園に遊んだ桂昌院の一日に焦点を合わせ、プレの造園状況を辿りながら、作庭の始発を推測するのが目的である。

吉保は自作の「六義園記」(同上31・32頁)で、「和歌の浦のすくれたる名ところを写」しとった六義園を、「あゝ浦(和歌の浦)は、すなはちやまと歌なり」と、和歌との一致を擱いて六義園は語れないと綴った。

園が和歌を礎にする堂々たる標榜である。

では「六義園記」の六義園と、プレ六義園との間の差異は如何ほどであったのか。

(一)お出かけ好き

元禄14年(1701)4月25日条の『楽只堂年録』(以下『年録』と略)には、

今日、三の丸様、王子・道灌山(どうかんやま)・御殿山・円勝寺など、所々を御遊覧にて、御帰りに、吉保か駒込の下屋舗に御立寄りなり(第3・94頁)、

と始まる。

三の丸様は申すまでもなく綱吉生母桂昌院。

彼女はお出かけ好きであった。帰依した亮賢を開山に、彼女自身が開基となった護国寺へはもとより、近郊の寺院や名所、はたまた隅田川の川遊びなど、行き先は多い。

(二)この日の行程

この日の前半の行程は、東京都北区・荒川区・文京区に跨がり、JR京浜東北線の、西日暮里―田端―上中里―王子の各駅間に、ほぼ1.5㎞おきに並ぶ。

王子は王子稲荷神社。道灌山は、太田道灌の出城址。東に筑波山、西には冨士山が望めた景勝地。御殿山には、将軍鷹狩り用の御殿があった。円勝寺は、家康が腰掛けた由で寺領5石が与えられた「五石松」があった。

江戸城(千代田区)から王子までは直線距離で3里弱(10㎞)。

江戸城を朝7時に出発したとして、途中昼食を挟み四箇所を遊覧するのは、かなりハードなスケジュールである。

しかし桂昌院達はそれをこなし、「八つ時過(午後2時半過ぎ)、御駕籠近づきぬる」(第3・95頁)。六義園にさしかかったのである。

そして、「七つ半時(午後4時半頃)に御気色よく御帰なり」(同96頁)となるから、六義園に割けたのは2時間程度であった。

(三)家族総出の準備

迎える吉保側。

落ち度なきよう、当日吉保は登城遠慮。

「明け六つ時」(同上、午前5時頃)から、妻定子・子女とその生母達・養女の女婿等合計11人が六義園に詰めた。

「居館」の設営は、生涯に58度に及んだ綱吉御成と略同。

ただ綱吉と異なるのは、「煙草道具」と日傘・杖・履。

「煙草道具」は桂昌院の喫煙を語り、日傘・杖・履は、庭の散策用であるのは明らか。

(四)9箇所の茶屋

吉保は「庭に、九の茶屋」(第3・94頁)を構えた。

桂昌院のお供は、上﨟3人以下、下っ端10人まで合計47人(同97頁)。
全員に楽しんでもらうための9箇所であったはずである。

茶屋は、「中の茶屋」と「東の茶屋」に区分されていた。

ここの「中」が指す所が不明である上、「東」に対する「南」「西」「北」への言及もなく不審が残るが、何れ触れることになる。

「中の茶屋」には、種々の人形を入れた重棚や重籠、様々の草花を盛った針金の花籃や焼物の花桶が飾られてあった。

さらに「中の茶屋にて、提重(手に提げて持ち歩ける組み重箱)を開て、菓子・御茶をすゝむ、御供の女中にも、ミなミなへ料理をまいらす」(同96頁)とあるから、提重をひろげるスペースも窺える。

ただ、「中の茶屋」は1軒のみで、「東の茶屋」からは独立していたらしい。

(五)東の茶屋

対する「東の茶屋」は盛りだくさんである。

①冨士屋…暖簾を「冨士屋」と染め抜き、紅花十箱を並べ置く。

②布袋屋…張子・香包・煙草入・煙管・刻み煙草以下、小間物8種を並べる。

③濱松屋…名酒35品を置き、酒林(酒屋の看板として杉の葉を球形に束ね軒先に吊したもの)を出した。

④髙砂屋…干菓子三十種類を用意。

⑤吉野屋…草花数十種を配置。ミニ植物園の躰である。

⑥橘 屋…石台(植木鉢の一)や花桶を利用した作り花三十品。

⑦清水屋…ところてん屋。

⑧難波屋…青物店。

そして「九の茶屋、或ハ板ぶき、或は萱ふき、或わらにてふけるも有、布の幕・暖簾・竹簾・縄簾、さなからにひなひたるありさま」(第3・95頁)であった。

屏風や襖や御簾に囲まれた江戸城内には求め得ない野趣を醸していたのである。

(六)居館での接待

八つ時過に到着した桂昌院は、居館に通された。

御雑煮出て、御膳三汁十菜、二、三向詰(本膳の向こう側に据える魚の姿焼)あり(同95頁)、

とあり、本格的本膳料理が供されている。

その後、桂昌院からの下賜品、吉保家からの献上品の贈答がなされたのであったが、これらにどれほどの時間が割かれたのであろう。

(七)庭内散策

結果的に言うなら、庭内散策に宛てられた時間は30分程度に過ぎなかったと思量される。

それより庭の内の所々を御遊覧なり、吉野屋といふ茶屋にて、草花を御詠め遊ばし、中の茶屋にて、提重を開て、菓子・御茶をすゝむ、御供の女中にも、ミなミなへ料理をまいらす(同96頁)、

用意周到に9軒も設営した茶屋。
しかし、なにせ30分では楽しめる量に制限がありすぎる。

上に引用の『年録』に「中の茶屋」と「吉野屋」のみ登場するのも、他を廻るゆとりがなかったのを語ろう。

さらに「九の茶屋にかざりたる品々を、三の丸様の御帰り以後、ことごとく持せて進上す」(同96頁)とある。

廻りきれず、楽しんでもらえなかった茶屋に残された手つかずの品々の進上も、まさに時間のなさの証左である。

さて、以上見て来ると、庭の様子が一言も語られていないのに気づく。

一方、「和歌の浦のすくれたる名ところを写」し、天下の名園たる名に恥じない六義園。
当時、既に完成していたなら、桂昌院に是非にも見せたい庭であったはずである。

それなのに庭の記述が些かもないのは、庭園が少なくとも後の六義園の状況にはなっていなかったのを語る。

(八)『松陰日記』との対比

吉保側室正親町町子の仮名日記『松陰日記』(宮川葉子『柳沢家の古典学(上)―『松陰日記』―』平成19年1月・新典社)「十、から衣」には、

庭の辺りこそ又いと殊なれ。広々とかき払ひて、さすがにおかしき木草ども植へ添へ、水清く遣り流して、石など据へたるも故ありてしなさせたまへり(7段・407頁)。

とあり、ここからは、次が想定される。

広い池水の水草は除草されすっきりしている。
木や草花も植えられ、程よく石なども配されている。
その間を遣り水が涼しげに流れている。

しかしこれだけでは、「和歌の浦のすくれたる名ところを写」し、玉津島が浮かぶ六義園の様相は浮かんで来ない。

(九)プレ六義園の想定

『松陰日記』には、「中の茶屋」と「東の茶屋」のことが、「こゝかしこの隈々に建てゝ九所ぞ有ける」(407頁)とある。

「中の茶屋」は、池を臨む庭の中央部に位置していたのではないか。

一方、後に「六義館」と命名される居館は建物群の最北端に位置する。
池に臨むそこには、階(きざはし)で庭へ下りる用意があった。
「六義館」と池の間の、庭の中央部に設営されたのが「中の茶屋」であったと見たい。

(一〇)『六義園図』を手掛かりに―その①―

公益財団法人柳沢文庫所蔵の『六義園図』三巻は、上巻・狩野常信、中巻・狩野周信、下巻・狩野岑信父子が分担描写した「江戸狩野派の庭園画様式の確立を示す記念碑的な作品」(『歌枕』サントリー美術館展示図録作品解説76・2022年6月)。

当該は、『楽只堂年録』宝永3年(1706)10月14日に、

六義園の、十二境八景の和歌到来す(十二境・八景和歌の詠者略)、まえかた、十二境八景の絵巻物を捧けて、公家衆の詠せられたる和歌を、其絵巻物に書しめたまふへき事を願ひぬれとも、絵巻物に、自詠の和歌を書ける事ハ、例なき事なりとて、いつれも別紙に認らる、件の絵巻物には、中山宰相兼親に仰せて、十二境八景の名を書しめたまふ、其外題ハ、転法輪右大臣実治公に、仰せありたるなり(第7・49~50頁)、

とあるもの。

吉保は絵巻物に仕立てた六義園図に、公家衆の詠歌書入を願い出た。

霊元院の勅撰「六義園十二境八景」と公家衆による題詠は、吉保にとって最上の堂上文化以外の何物でもない。

しかしそうした前例はないと、歌は別紙に認められた。
見事に描かれた絵巻の美しさのバランスを損ねるのを懸念しての配慮であった。

そして公家の染筆への吉保の期待を察する霊元院は、十二境八景の名を中山兼親に、外題を三条実治に書かせたのである(図1参照)。

十二境八景を染筆した中山兼親は、前権大納言篤親息で当年23歳。同年2月11日に任参議、10月9日に叙従三位(『公卿補任』)。

篤親は正親町実豊三男だが、中山家の養子となった(『公卿諸家系図』)。
従って、十二境の「芦辺」を詠じた正親町公通(実豊長男)とは、伯父と甥の関係にある。

(一一)『六義園図』を手掛かりに—その②—

絵巻第1巻の冒頭は、「遊芸門(ゆうげいもん・ゆきのもん)」「初入岡(はつしほのおか)」「六義館(むくさのたち)」(図2参照)と始まる。

続いて、「山見石(けんさんせき・やまみるいし)」「詞源石(しげんせき)」「心泉(こゝろのいずミ)」「心橋(こゝろのはし)」の四景が並ぶ(図3参照)。

並ぶ四景は、まさに「おかしき木草ども植へ添へ、水清く遣り流して、石など据へたる」景地にほかならないのではないか。

この四景はまた、『六義園記』(柳沢文庫蔵。1巻。吉保が定めた八十八境の由緒に作庭の意図を序文として据えたもの)から、和歌詠作の心根の基本にあるものを、自らに言い聞かせるべく命名したものであるとわかる。

ということは、桂昌院を招いた時点で、吉保は六義園に託した和歌への思いの一部分だけは完成させており、その側に「中の茶屋」を設営したことになる。

しかし、他の名所に関しては、まだ確定的な状況にはなく、「こゝかしこの隈々に」8軒建てた模擬店を一括し、「東の茶屋」と呼ぶのが精一杯ではなかったか。

「東の茶屋」群があった箇所には、後に「新玉松(にいたままつ)」と「芦辺茶屋」が設営される。

そして玉津島を模した中島(吉保は「妹与背山」〈いもとせやま〉と命名)と共に、「あゝ浦(和歌の浦)は、すなはちやまと歌なり」を地で行く、和歌上達祈願の神域として位置づけられて行く。

「北」「西」「南」の茶屋と言える描写はなかった。
作庭が準備段階で、これというものがなかったためか。

それとも桂昌院一行のスケジュールがタイトで、「中」「東」以外の遊覧は無理と予則されたからか。

いずれにせよ、当該コラムの時点では、多くの名所が未完成であった。

(一二)作庭開始の時期

では六義園の作庭はいつ頃始まったのか。

元禄13年(1700)は吉保43歳である。

5月23日、吉保の26歳年長の異母姉(生母青木氏)が逝去。

それだけが原因か否かは即断できないが、直後から吉保は所労のための登城遠慮が続く。

心を痛めた綱吉は、御殿医を特別手配。
それが功を奏したか、8月朔日からは通常勤務に戻ることができた。

そして8月22日、「吉保所労の後なれば、保養のため、駒込の屋敷に遊ぶ」(『年録』第3・36頁)とある。

しかし、その詳細は記されていない。

ところが『松陰日記』「九、わかのうら人」にはかなり詳しい記述がある。

駒込という所に山里持給へる思し出ておはしたり。(中略)月頃、御暇おはせず、遠き所には大方さし覗かせ給ふ事だになければ、庭などもおさおさ繕はせ給はず。気疎く荒れまさりて野辺の松虫所得顔なり。(中略)かう静かなる所に思ふ事なくて詠むこそ、いかばかりのおかしさも添ふわざならめなど思すべし(373頁)。

駒込の別墅(下屋敷)の存在すら忘却しがちだった吉保。
丸2箇月の病臥の間に、忙し過ぎた滅私奉公の日々を辿ったか。

整備させていなかった庭は、薄気味悪いほど荒れまさり、松虫の鳴き声が占領している。

こうした静かな所に煩いなく過ごせたなら、どんなに情緒が深まることやらと、改めてこの地の利を悟ったのではなかったか。

この時点こそ、吉保が「六義園」作庭を決意したものと考えたい。

そして、そこを和歌の庭にするために一役買ったのが、同月27日、北村季吟から古今伝受したことであったと考える。

(一三)六義園の変遷

元禄15年(1702)10月20日の『楽只堂年録』は、「六義園記」と絵図(図4参照)を収載。
これこそが初期の六義園を伝える貴重な史料である。

それから520年後の本年令和5年(2023)まで、六義園は変遷を重ねて来た。

それでいながら、「和歌の浦のすくれたる名ところを写」し、玉津島が浮かぶ六義園の中心部だけは変わらず面影を伝え続けている。

明治にいたるまで柳澤家の江戸下屋敷として利用され続けたこと、その後譲り受けた岩崎家の管理態勢がしっかりしていたことなどがその理由か。

それでも、初期に比し、多くの名所が消滅・変更の憂き目に遭っているのは否めない。
ちなみに前に挙げた「山見石(けんさんせき・やまみるいし)」以下の4景も今はない。

以下のコラムでは、『六義園図』と『六義園記』に則りながら、吉保時代の六義園を復元、吉保が園に託した思いを改めて確認してみたいと考えている。

 

図1 『六義園図』箱書〔(公財)柳沢文庫所蔵〕

図2 『六義園図』遊芸門・初入岡・六義館〔(公財)柳沢文庫所蔵〕

図3 『六義園図』山見石・詞源石・心泉・心橋〔(公財)柳沢文庫所蔵〕

図4 『六義園図』〔(公財)柳沢文庫所蔵〕

 


【著者】
宮川葉子(みやかわようこ)
元淑徳大学教授
青山学院大学大学院博士課程単位取得
青山学院大学博士(文学)

〔主な著作〕
『楽只堂年録』1~9(2011年~、八木書店)(史料纂集古記録編、全10冊予定)、『三条西実隆と古典学』(1995年、風間書房)(第3回関根賞受賞)、『源氏物語の文化史的研究』(1997年、風間書房)、『三条西実隆と古典学(改訂新版)』(1999年、風間書房)、『柳沢家の古典学(上)―『松陰日記』―』(2007年、新典社)、『源氏物語受容の諸相』(2011年、青簡舎)、『柳澤家の古典学(下)―文芸の諸相と環境―』(2012年、青簡舎)他。