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やさしい茶の歴史

明恵と茶 その二——やさしい茶の歴史(十)(橋本素子)

明恵の「駒の蹄影」伝説

前回の明恵の「深瀬三本木」伝説に引き続き、「駒の蹄影」(こまのあしかげ)伝説にも触れておこう。

まず「駒の蹄影」伝説の内容である。

ある日、宇治を訪れた明恵は、宇治の人々が茶実の蒔き方が分からず困っていたところに差し掛かった。そこで「栂山の尾の上の茶の木分け植ゑて あとぞ生ふべし 駒の足影」という和歌を示し、乗っていた馬を畠に歩ませ、そこに出来た蹄の跡に茶実を蒔くようにと教えた。これが宇治茶の濫觴(らんしょう)=はじまりであるとされている。その場所は、現宇治市五ケ庄とされ、宇治黄檗萬福寺門前にある「駒蹄影石碑」にはこの和歌が刻まれている。

伝説の名称の初見

まずもって「駒の蹄影」の初出は、江戸時代まで下がる。しかも、「こまのあしかげ」という名称の初見とストーリーの初見とは、若干のタイムラグがある。

「こまのあしかげ」の名称の初見は、慶安5年(1652)近衛尚嗣の「茶入日記」(陽明文庫)にみえる「駒足陰」である。ここでは、「兵衛尉」なる者が近衛家へ納めた茶の銘のひとつとして登場する。この史料をご教示いただいた元宇治市歴史資料館館長の坂本博司氏は、この時期すでに「駒の蹄影」の伝説が成立していたことを想定されている。「兵衛尉」(五ケ庄の茶業者か)なる人物が、地元を舞台とした宇治茶の濫觴として語られていた「駒の蹄影」伝説を誇りに思い、これを茶銘として付けたということになろうか。

伝説の内容の初見

いっぽう「駒の蹄影」のストーリーの初見は、『梅山種茶譜略』の付録として収録されている、延宝4年(1676)夏に月潭道澂(げったんどうちょう)が書いたとされる文章となる。

月潭道澂は、黄檗宗草創期の日本人僧で、隠元の付き人をつとめ、「煎茶歌」など茶を題材とした詩や、「瀟湘八景図巻」(大津市歴史博物館蔵)を残している。なお、『梅山種茶譜略』は、高遊外(こうゆうがい・売茶翁)が延享5年(1748)に書いたものを、文政9年(1826)に書写したものとされている。

その月潭の文章をみると、まず松南院盛翁の『茗話集』を引用している。

梅尾の茶を以て都の茗と曰う。又本(ほん)の茶と曰う。これ本邦の第一なるを以ってになり。蹄茗(こまのあしかげ)は明慧(恵)上人の園なり。その所は菟道の郡五箇の庄の内、大和田(おわだ)に在るなり〈岡屋・谷村・岡本・上村・大和田等〉。これを五箇庄と謂う。

このように、「蹄茗」を「こまのあしかげ」と読ませ、これを明恵の茶園であるとしている。

ついで『梅尾古記』を引用する。

山城国菟道の郡、蹄茗園は〈五箇庄の内大和田に在り〉。明慧(恵)上人の園なり。梅尾の深瀬よりこれを移し植え、其園を駒蹄影と名づくと云云。明慧上人の歌に、梅山の尾上の茶の木分植て迹(あと)ぞ生(おう)ベし駒の蹄影

ここでも、「蹄茗園」は明恵の茶園とあり、栂尾の深瀬より茶樹を移し植え、その園を「駒蹄影」と名づけたものであるとしている。さらには明恵の歌とされる「梅山の尾上の茶の木分植て迹ぞ生ベし駒の蹄影」も見える。

よって、「駒の蹄影」が、前回の「深瀬三本木」伝説のようにその形成過程を明らかにしえないものの、一次史料(同時代史料)には見えない、後世に創られた「伝説」であることは明らかである。

宇治郷側の伝説「宇治七名園」

実は、宇治茶の濫觴とされる伝説には、もうひとつある。それは、室町時代に足利義満が宇治に「森・祝・宇文字・川下・奥ノ山・朝日・琵琶」の七名園を制定したとする「宇治七名園」伝説である。初出は、戦国末期の永禄7年(1568)に堺の茶人真松斉春渓が書いた『分類草人木』で、江戸時代以降、主に宇治郷側の視点で編纂されたとみられる地誌類では、こちらの伝説が採用されている。たとえば、元禄10年(1697)『莵道旧記浜千鳥』(うじきゅうきはまちどり)、明治期写の『宇治記』や『宇治里袋』をみると、「宇治七名園」伝説の記載があるが、「駒の蹄影」伝説は見えない。明治期写の『茶ノ沿革』には、「宇治七名園」伝説の記載があり、かつ「明恵が宇治に茶を植えた」とする記載もあるが、「駒の蹄影」伝説とは異なる。どうやら、江戸時代の宇治郷で、宇治茶の濫觴を語る時には、宇治郷を舞台とした「宇治七名園」の伝説を用いるため、「駒の蹄影」伝説を用いることはなかったものと見られる。

五ケ庄と宇治郷

このように、同じ宇治市域でも五ケ庄と宇治郷で、異なる宇治茶の濫觴を示す伝説を持つに至るのも、戦国期から近世にかけての、宇治地域における次のような政治的な事情が影響しているのではないか。

すなわち、室町時代の宇治地域では、近衛家領五ケ庄がその中心にあり、地元有力者としては、室町幕府奉公衆の真木島氏と宇治大路氏がいた。真木島氏は、居城槇島城がある五ケ庄槇島名を拠点とし、宇治大路氏は五ケ庄の公文(荘官)であった。そして、宇治大路氏からは、毎年足利将軍家に茶が進上されていた。

しかし真木島氏と宇治大路氏は、元亀4年(1573)の槇島城の戦いで織田信長に敵対して敗れた将軍足利義昭に味方し没落する。

これに対して、戦国期を通じて台頭してきたのが、宇治郷とそこに住む茶業者、江戸時代には徳川将軍家御用をつとめた「宇治茶師」である。この時期、宇治橋から南にのびる新町通り沿いには、上林家や堀家以下多くの茶業者が集住し始めた。そして彼らは、茶園や田地などの土地を集積し、漸次経営基盤を強化していく。その過程で、自分たちの茶業の由緒を室町時代の足利義満期に求める「宇治七名園」の伝説も得て、そのブランディングに成功していくのである。

ついには、槇島城の戦い以降、政治および宇治茶業の中心は、宇治郷に移ることになる。

このように、宇治郷に水をあけられた感のあった五ケ庄ではあるが、領主近衛家と高山寺との明恵以来のつながりを梃子に、江戸時代になって、宇治郷よりも古い時代の鎌倉時代にその濫觴を求める「駒の蹄影」の伝承を得ている。そればかりか、地域としては今日まで茶業を継承させ、良質な宇治茶を産出しているのである。

この続きは後述することとし、次回からは、また鎌倉時代に戻りたい。

【今回の八木書店の本】
橋本素子・角田朋彦・野村朋弘校訂『史料纂集古文書編 宇治堀家文書』2021年


橋本素子(はしもともとこ)
1965年岩手県生まれ。神奈川県出身
奈良女子大学大学院文学研究科修了
元(公社)京都府茶業会議所学識経験理事
現在、京都芸術大学非常勤講師

〔主要著書・論文〕
『中世の喫茶文化―儀礼の茶から「茶の湯」へ―』(吉川弘文館、2018年)
『日本茶の歴史』(淡交社、2016年)
『講座日本茶の湯全史 第一巻中世』(茶の湯文化学会編、思文閣出版、共著、2013年)
「宇治茶の伝説と史実」(第18回櫻井徳太郎賞受賞論文・作文集『歴史民俗研究』、板橋区教育委員会、2020年)
「中世後期「御成」における喫茶文化の受容について」(『茶の湯文化学』26、2016年)