安保氏の故郷を訪ねて その2(編集者・M)
阿保山吉祥院真光寺
その1で紹介したように、安保氏は埼玉県神川町元阿保に本拠を置いていた。その菩提寺は、東に約1kmほど離れた上里町大御堂にある吉祥院真光寺という古刹である。寺伝によれば、当寺は京都仁和寺の末、真言宗智山派で阿保山吉祥院と呼ばれ、大同元年(806)に武蔵介阿保人上が開基、沙門任覚を開山として創建されたという。
〔図1 阿保山吉祥院山門〕
〔図2 本堂の扁額〕
治承4年(1180)、安保実光(1142〜1221)が当寺を再興し、沙門真隆を招き中興の開山とした。治承・寿永の源平合戦以降、実光をはじめ安保氏一族は、源頼朝の御家人として活動の場を拡げていく。安保実光の七男実員の女が執権北条泰時の継室となり、北条氏との縁戚となる。
承久合戦(1221)に際して安保一族は、実光をはじめ三人が討ち死にし、実員が負傷している。元弘年(1333)の鎌倉幕府滅亡に際しては、武蔵・分倍河原の戦いで安保入道道湛が幕府側として新田義貞軍との合戦で戦死。倒幕方の建武新政権により領地を没収された。
建武2年(1335)7月、最後の得宗北条高時の子、時行が信濃国の武士らに擁立されて挙兵。足利直義軍は敗れ、時行が鎌倉を占領する(中先代の乱)が、8月には遠江で足利尊氏と合戦して敗退する。
この間、足利尊氏に従った安保氏がいた。信濃国小泉荘を尊氏から与えられた安保光泰である。光泰は先陣となって時行軍を攻撃し、足利軍勝利に貢献した。尊氏は光泰の戦功を称え、道湛の没収された旧領と安保氏の惣領職を光泰に与えた。
その後、吉祥院はたびたび兵火や火災で焼失し、現在の本堂は文化10年(1813)に再建されたものである。
この寺院は創建以来、立派な伽藍があったのであろう。地名の「大御堂」は、それに由来するという。
〔図3 案内板(上里町役場)〕
境内を入って左側に、安保氏歴代の墓石群があった。一族の方々に合掌して寺院を後にした。
〔図4 安保氏の墓石群〕
『史料纂集古文書編 第52回配本 安保文書』
新井浩文・伊藤一美・井上 聡校訂
本体17,000円+税
初版発行:2022年5月25日
A5判・上製・函入・336頁
【収録年月】文保2年(1318)~永禄12年(1569)
【目次】口絵(14通掲載) 全94通+ 参考史料36通・花押一覧・関係系図・解題