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出版部

安保氏の故郷を訪ねて その1(編集者・M)

今年の大河ドラマは「鎌倉殿の13人」である。各地で関連の展示や催し物が開かれて盛り上がり、物語も佳境に入ってきた。今春、10年越しでようやく史料纂集古文書編『安保文書』を刊行することが出来た。鎌倉時代の初めに、歴史に登場してくるのが安保氏の祖、実光である。『吾妻鏡』によれば、平家追討の際、源範頼の軍勢に加わって摂津の国に赴いている。

その後、奥州合戦でも活躍し、最期は承久の乱において宇治川で戦死する。没年は、齢80と伝えられている。この夏、安保氏ゆかりの埼玉県児玉郡北部を訪ねてきたので、画像をまじえて紹介したい。

安保氏居館跡

安保氏は武蔵七党のうち、丹党に属する武蔵武士である。本姓は丹治(比)を称し、新里恒房の二男実光が武蔵国賀美郡安保郷(現在の埼玉県児玉郡神川町大字元阿保字上宿)に住んだのが祖とされる。元阿保はJR東日本八高線の丹荘駅北東に広がる地名で、実光の父新里恒房の「新里」も丹荘駅西側の地名としてのこる。

丹荘駅の北東にはしる旧鎌倉街道上道沿いに、安保氏総領家の居住地として伝えられる居館跡がのこる。昭和63年と平成4年の発掘調査により、安保氏館は南北230m、東西160m程の方形状の堀が確認され、更にその内側にも同じく方形状の堀で区画された郭が存在していた事が明らかになっている。この時の発掘によって、堀のほかに掘立柱建物跡、畑、井戸の跡などが見つかっている。館の大手口は鎌倉街道に面していて交通の要所に館を築いたことが見てとれる。

〔図1 安保氏館跡の案内板(神川町教育委員会)〕

いま、街道に面した愛宕神社という小さな社の中に、江戸時代末期の嘉永元年(1848)に建てられた「安保氏遺蹟之碑」がある。このあたりが、安保氏居館の中心と推定されているようだ。その居館は内堀・外堀を備えたもので、現在も堀の跡が残るという。また、関連してこの付近には「馬場」「馬出し」と呼ばれる場所がある。

 

〔図2 安保氏館跡に建つ愛宕神社〕

〔図3 安保氏遺蹟之碑(1848年建立)〕

阿保神社

安保氏居館跡の近くには鎌倉時代に安保氏が建立したとされる阿保神社がある。社伝によれば、延暦3年(784)伊賀国阿保村の阿保朝臣人上が創祀し、治承4年(1180)、安保次郎実光が社殿を造営した。阿保神社は、『延喜式』神名帳の武蔵国賀美郡に記載されている式内社「今城青八坂稲実神社」の論社であり、また、「今城青坂稲実荒御魂神社」の論社である「稲荷神社」を合祀している。案内板の由緒によると『武蔵国風土記稿』に六所明神社とあり、明治43年(1910)に社号を現在の阿保神社へ改称したという。

〔図4 阿保神社境内〕

〔図5 阿保神社拝殿〕

(編集者・M)


『史料纂集古文書編 第52回配本 安保文書』
新井浩文・伊藤一美・井上 聡校訂
本体17,000円+税
初版発行:2022年5月25日
A5判・上製・函入・336頁
【収録年月】文保2年(1318)~永禄12年(1569)
【目次】口絵(14通掲載) 全94通+ 参考史料36通・花押一覧・関係系図・解題