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『新皇居行幸年表』編集余滴

平城宮の内裏と西宮 ―『新皇居行幸年表』編集余滴4(詫間直樹)

奈良時代の皇居に関わる表記には、「内裏」のほかにも「中宮」(ちゅうぐう)、「中宮院」(ちゅうぐういん)、「西宮」(さいぐう)、「東宮」(とうぐう)などがあり、『新皇居行幸年表』の編集においては、これらの呼称を平城宮内のどこに比定すべきかという問題に直面した。このうち中宮・中宮院については平城宮の東区の朝堂院正殿下層区域やその北方に位置する内裏を、東宮については平城宮の東張り出し部を指すことでほぼ見解が定まっている。西宮については、2004年に平城宮中央区の朝堂院内で称徳天皇の大嘗宮(だいじょうきゅう)が発見されたことで、称徳朝に見える西宮は中央区Ⅱ期の遺構に相当することが確定した。しかし、その建設年代に関しては近年に至っても議論があり、どの天皇もしくはどの太上天皇から西宮に居住するようになるのかが不詳のままである。そこで、今回は天平時代末年の「西宮」に関わる史料として、従来から種々論じられている元正太上天皇御在所の中宮西院(ちゅうぐうさいいん、『万葉集』)、いわゆる西宮兵衛木簡(さいぐうひょうえもっかん)、そして『正倉院文書』に見える西宮の3件を取り上げ、内裏と西宮の関係を中心に述べることとする。

天平末年の内裏と中宮西院

西宮は、平城宮中央区の第一次大極殿院の跡地に造営された天皇・太上天皇の居住区画(中央区Ⅱ期)で、東区の内裏と南北の長さを揃えて改作された宮域を指す。称徳天皇の時代には正史『続日本紀』に記載され、天皇の皇居となった[本書105~108頁]。西宮の造営については、第一次大極殿院南面回廊の東西楼閣の解体がその柱抜取穴から出土した木簡により孝謙朝の天平勝宝5年(753)頃と判明したので、そこから西宮の建設が始まり、淳仁朝の天平宝字年間の「平城宮の改作」(『続日本紀』天平宝字5年10月28日条)を経て称徳朝までには完成したと考えるのが一般的であった。これに対し、第一次大極殿院南面回廊の解体は西宮建設の最終段階を示すもので、西宮の造営は聖武天皇の平城還都直後から開始されていたとする見解もある。その場合、西宮は天平末年の頃より中央区において太上天皇宮として存在し、元正太上天皇、ついで聖武太上天皇が居住したことになる。

そこで検討すべきは、天平18年(746)正月の時点で元正太上天皇の御在所として見える「中宮西院」[本書94頁]の実態である。『万葉集』巻17(3922題詞)には次のようにある(〈  〉は割注)。

天平十八年正月、白雪多に零り、地に積むこと数寸なり。時に左大臣橘卿(橘諸兄)、大納言藤原豊成朝臣及び諸王・諸臣らを率いて、太上天皇御在所中宮西院〉に参入し、掃雪に供奉す。ここにおいて詔を降し、大臣・参議幷に諸王は大殿の上に侍せしめ、諸卿・大夫は南細殿に侍せしめて、すなわち酒を賜いて肆宴したまう。勅して曰く「汝諸王卿ら、いささかにこの雪を賦し、各々その歌を奏せ」とのりたまう。

ここに記された中宮西院について、通説では中宮の区画の中にある西側の院、つまり平城宮東区に位置する内裏の中の西院と考えられてきた(図1)。しかし、近年になって中宮西院を中宮の西方にある離れた院と解し、これを平城宮中央区に新設された区画に充てる考えが出された。この場合、のちの称徳朝の西宮と同義と捉え、中宮西院を西宮の前称ともみている。つまり中宮西院を中央区Ⅱ期に充てる考え方である(図2)。

ここでは当時の元正太上天皇御在所=中宮西院と内裏との関係を考える上で、中宮西院の内部構造が「大殿」と「南細殿」の二つの中心殿舎から成っていることに改めて注目したい。というのは、天平17年(745)5月に平城還都[本書93頁]した際の平城宮内裏(2期)内の東側には、発掘の結果、大型殿舎とそのすぐ南に細い殿舎とが存在することが判明しているので(ともに東西棟建物)、これと左右対称になる西側の未発掘エリアにも同様の殿舎の存在が推定されるからである(周囲が築地回廊となる3期の内裏でもほぼ同様)。一方、還都翌年(天平18年)の正月という早い時点でこうした殿舎構成を中央区に求めることは難しく、また中央区Ⅱ期の宮殿遺構=西宮では逆に殿舎が多く建ち並びすぎている。したがって、『万葉集』に記す元正太上天皇御在所の中宮西院は、やはり中宮(内裏)の中で、西側にある一院として存在したと考えられる。そうであれば、天平20年(748)4月に元正太上天皇が崩御した「寝殿」(『続日本紀』天平20年4月21日条)についても、内裏内にある中宮西院の「大殿」を指すことになろう。

西宮兵衛木簡の解釈

天平末年頃に平城宮内で廃棄された木簡として、いわゆる西宮兵衛木簡がある。これは平城宮内裏の北東の外郭内に掘られたゴミ捨て穴(SK820)から出土した大量の木簡(約1800点)のうち、その頃「西宮」と呼ばれた区画の周囲の門を警備する兵衛の食料請求に関する伝票である。廃棄して埋められた時期は、他の年紀木簡から天平末年(天平19年(747)・同20年)頃とみられている[本書95頁]。この西宮は平城宮東区の内裏とみるのが通説であったが、これを中央区に造営された西宮に充て、天平末年より中央区に「西宮」と称された区画が存在した根拠とする見解もある。果たしてこの木簡に記された西宮はどこに存在したのであろうか。

西宮兵衛木簡の例を記すと次のようなものがある(〈  〉内は割書。木簡の釈文は『平城宮木簡 一』をもとに、奈良文化財研究所の「木簡庫」に掲載されたものを参照した)。

(木簡番号99)
(表)西宮南門〈春部 大野 上 船〉 角門〈達沙 丹比部〉 合六人
(裏)此无塩如何不可須如常□

(木簡番号105)
(表)西宮東一門〈茨田 □□〔大伴ヵ〕 □□ □〔錧ヵ〕〉 合四人
(裏)東二門〈□□ □□ □□〔奈林ヵ〕□〔綾ヵ〕〉  合四人

(木簡番号100)
(表)東三門〈額田 林 神 各務 漆部 秦〉 北門〈日下部 縣〉 北府〈服結 大伴〉
(裏)合十人   五月九日 食司日下部太万呂状

西宮の門の名称はここに見える南門・角門・東一門・東二門・東三門・北門のほか、北炬門も知られる。この中で南門が西宮の正門であることはまちがいない。角門は木簡には南門とともに記載され、兵衛の員数も南門と角門の両者を一括して合計しているので、角門は南門の東寄りに位置する脇門とみられる。東面の門については、東一門と東二門が一つの木簡に記され、また東三門は北門・北府と一括して兵衛の員数を通計しているので、東門の並び方は、南から東一門、東二門、東三門という順番であり、また北面には角門はなかったことがうかがえる。北門と北炬門との関係については、北炬門とは夜間に篝火を焚く西宮の北門の意であろうから、門としては北門=北炬門である。さらに北門の北側に北府が存在していた。『西宮記』(臨時五、所々事)では左右兵衛佐の宿所が内裏北門である玄輝門の外の左右にあったと記すので、木簡に見える北府は左兵衛府の詰所であったと考えられる。以上のことから西宮の構造を復原すると図3のようになる。

※なお、木簡としては残っていないが、東西対称の構造から、西宮には、西の角門、西一門、西二門、西三門も存在したと考えられる。

ここで特に注目したいのは、西宮の北面に角門が存在しないことである。この構造は、天平18年・19年頃の改作で出来た内裏(3期)の築地回廊の構造に合致する。ところが、中央区Ⅰ期の第一次大極殿院や中央区Ⅱ期の西宮では北門の東西にも脇門が存在したようなので、門の構成上は図3とは合わない。よって西宮兵衛木簡に記された「西宮」とは、やはり内裏(3期)の蓋然性が高いと考えられる。内裏などの閤門(内門)の守衛には兵衛が当たったこと、西宮兵衛木簡の出土地点が内裏外郭内で内裏の東北方であり、かつ東門表記の木簡はあるが西門表記のものが見えないことなどもこれを傍証するのではなかろうか。

正倉院文書にみえる西宮

『正倉院文書』では、天皇御在所を「内裏」と表記する例が圧倒的に多いが、その中で天平16年(744)4月、天平感宝元年(749)5月、天平勝宝2年(750)6月の3件の文書にそれぞれ「西宮」が所見する。このうち天平16年の「西宮」は、聖武天皇が紫香楽宮(しがらきのみや)に滞在中のものであり[本書92頁]、平城宮では中央区の第一次大極殿と東西築地回廊が恭仁宮(くにのみや)に移築されて存在しない状況にあるので、西宮を平城宮の施設に求めるならば、内裏(2期)を指すものと考えられる。また天平勝宝2年も孝謙天皇が大郡宮(おおごおりのみや)に滞在していたときに当たる[本書97頁]。これらの場合、内裏の東方にある「東宮」に対し、内裏は西に位置するので「西宮」と称されたのであろう。

天平16年の文書によれば、4月16日に大般若寺の大般若経300巻が金光明寺写経所から西宮へ貸し出され、同年6月17日にそれが返却されると同時に、残りの300巻余が再び貸し出されている。すなわち前半の300巻は西宮において2ヶ月間、また後半の300巻余は天平16年6月から18年4月までの約2年間、写経などの目的で使用された。つまり、ここに見える西宮は、少なくとも天平16年4月から天平18年4月までの2年間存在したことになる。そうした中で、天平16年4月16日の約1ヶ月前の3月14日には、大般若経が紫香楽宮に運ばれており、またその翌日の3月15日には難波宮(なにわのみや)の東西楼殿に僧300人を請じて大般若経が転読されている(『続日本紀』)。こうした状況を勘案すると、ほぼ同じ時期に西宮へ大般若経が大量に貸し出されたのも、それが平城宮に存在した宮域であったからではないかと考えられる。これらの動向は相互に関連するのではなかろうか。

西宮の造営時期について

中央区Ⅱ期の西宮の造営時期を平城還都後の早い段階に設定する説の根拠としては、①恭仁宮の東西内裏区画や紫香楽宮での東西宮殿の並列を継承して、還都直後の平城宮でも同様のプランが採用されたと考えられること、②天平末年から中央区が「西宮」と呼ばれたとみた方が称徳朝の西宮と連続性があり、西宮の名称が中央区で一貫して自然であること、③平城宮東方官衙の焼却土坑(SK19189)より「東宮守」「西宮守」と記された木簡(奈良時代末の宝亀年間か)が出土し、この「西宮」が称徳朝の区画を指すことが明らかゆえ、「東宮」は内裏と解釈し得ることなどが示されている。しかし、考古学的には、中央区Ⅱ期の宮殿の造営時期について、中心殿舎(SB7150)の解体時に柱抜取痕跡から出土した土器がⅤ期なので天平末年とは時期的に合わないこと、また別の主要殿舎(SB17870)の所用瓦が瓦編年でⅣ期となるので建設年代を天平末年まで上げるのは難しいことなどが指摘されている。上述の中宮西院、西宮兵衛木簡、正倉院文書の解釈も踏まえると、中央区Ⅱ期の西宮の完成は、やはり淳仁・称徳朝の天平宝字年間まで下るのではなかろうか。中央区で第一次大極殿院の南面築地回廊が残ったままで太上天皇が居住するというのも考えにくいことである。

したがって、聖武天皇が譲位後に平城宮内で居住した場所は中央区Ⅱ期の西宮ではなく、東区の内裏の中であったと考えられる。そして天平勝宝4年(752)の大仏開眼供養で大きな造営事業を終えた翌年の天平勝宝5年頃から、聖武太上天皇宮として平城宮中央区Ⅱ期の西宮造営が開始されたものと思われる。しかし、それは聖武上皇の存命中には完成に至らず、天平勝宝8歳(756)5月に聖武上皇が崩御した平城宮の「寝殿」(『続日本紀』天平勝宝8歳5月2日条、『東大寺要録』)は内裏内の殿舎であったとみられる。そうであれば、聖武上皇崩御後に挙哀(こあい)の場として記される「内院南門外」(『続日本紀』天平勝宝8歳5月6日条)についても、「内院」は内裏もしくはその中の一画を指し、その南門の外で挙哀が行われたと考えられる。『続日本紀』における天皇・上皇崩御記事の場所の表記について、称徳天皇は「西宮寝殿」と記す一方、元正・聖武両上皇は「寝殿」と記すだけで「西宮」が付かないことはやはり看過すべきではなく、これは崩御した場所が異なっていたために、正史の上でも書き分けられたものと考えられる。

内裏は中宮ともいい、またあるときは西宮とも呼ばれたという考え方は理解しにくい面もあるが、中央区の第一次大極殿院が機能的に停止していた期間であれば、平城宮東張り出し部の東宮に対して内裏地区を西宮と称したことはあり得るものと思われる。この点参考となるのは、時期はやや下るものの、実際に内裏が西宮と呼ばれた事例が存することである。長岡宮の内裏においては延暦8年(789)2月27日に桓武天皇が西宮から東宮へ移御したが(『続日本紀』[本書115頁])、この西宮は長岡宮の第一次内裏として朝堂院の西方に位置したものである。また初期平安宮においても、嵯峨天皇は当初東宮を御在所としていたが、弘仁2年(811)2月15日に西宮すなわち内裏へ遷御し[本書129頁]、それに伴い3日後には皇太子大伴親王が東宮に入っている(『日本後紀』)。ここにみえる西宮も嵯峨天皇が遷御以前に居住していた東宮に対する表記であり、それは内裏の別称として使用されているのである。

なお、従来より指摘されていることではあるが、大仏開眼供養前日の天平勝宝4年(752)4月8日に見える東宮と西宮(『東大寺要録』)については、やはりこのとき東宮に孝謙天皇、西宮(内裏)に聖武太上天皇がおり、それぞれに留守官が置かれたことを示しているものであろう[本書97頁]。また2年後の天平勝宝6年正月7日に東院(とういん)で催された宴(『続日本紀』)につき、『万葉集』がその場所を「東常宮」(ひがしのつねみや)と記すのは、東院すなわち東宮を指すものであり、これを内裏と解する必要はないと思われる[本書98頁]。

内裏と西宮等の関係をめぐり、この度は基本的にかつての通説を追認する形となった。しかし、これもあくまで一つの試案であり、奈良文化財研究所等による今後の発掘調査の進展によって改めるべき内容も出てくることであろう。引き続き平城宮における発掘成果には注視していきたい。

 

【主な参考文献】
・岩永省三「内裏改作論」(『古代都城の空間操作と荘厳』すいれん舎、2019年、初出2008年)
・小澤 毅「宮城の内側」(『日本古代宮都構造の研究』青木書店、2003年、初出1996年)
・奈良国立文化財研究所『平城宮木簡 一』1964年
・奈良国立文化財研究所『平城宮発掘調査報告ⅩⅠ』1982年
・奈良国立文化財研究所『平城宮発掘調査報告ⅩⅣ』1993年
・奈良国立文化財研究所「第一次大極殿院地区の調査」(『奈良国立文化財研究所年報1999-Ⅲ』1999年
・奈良文化財研究所『平城宮発掘調査報告ⅩⅦ』2011年
・仁藤敦史「平城宮の中宮・東宮・西宮」(『古代王権と都城』吉川弘文館、1998年)
・橋本義則『古代宮都の内裏構造』(吉川弘文館、2011年)
・湊 哲夫「平城宮の大改造」(『立命館大学考古学論集』Ⅲ-2、2003年)
・木簡学会編『日本古代木簡選』(岩波書店、1990年)
・渡辺晃宏「『万葉集』から平城宮を考える」(『美夫君志』93、2016年)
・渡辺晃宏『日本古代国家建設の舞台 平城宮』(新泉社、2020年)


【執筆者】
詫間直樹(たくまなおき)
1959 年、香川県生まれ。1984 年、広島大学大学院文学研究科博士課程前期修了(日本古代史専攻)。宮内庁書陵部、宮内庁京都事務所での勤務を経て、現在は川村学園女子大学非常勤講師。

〔主な著書〕
『皇居行幸年表』(続群書類従完成会、1997 年)
『京都御所造営録』1 ~ 5(中央公論美術出版、2010 ~ 2015 年)

詫間直樹編『新皇居行幸年表』
本体11,000円+税
初版発行:2022年4月28日
A5判・上製・カバー装・624頁
ISBN 978-4-8406-2258-5 C3021