別殿行幸について ―『新皇居行幸年表』編集余滴3(詫間直樹)
別殿行幸とは
別殿行幸(べつでんぎょうこう)とは、天皇が方違えをする必要が生じた場合などにおいて、同じ皇居の区画の中で、清涼殿などの常御殿から別の殿舎に移御することをいう。通常は昼御座(ひのおまし)の御剣などを携えて夜中に吉方の殿舎に移り、一夜を明かして本殿に還御するものである。本来、行幸とは天皇が皇居の外へ出行する場合に使用される言葉であるので、その意味からすれば別殿行幸は行幸ではないことになる。しかし、鎌倉時代以降、皇居内の別殿への移御についても史料上「行幸」と記されることが多くなり、やがて年始の正月に別殿へ行幸することは年中行事化して「年始毎春の儀」(『建内記』永享12年(1440)正月12日条)と称されるまでになる。また別殿行幸は、年始の節分方違えだけでなく、1年を通じて45日ごとの方違えに際しても事前に行われるようになる。したがって、この度の『新皇居行幸年表』ではこうした別殿行幸の事例についても、史料で確認できるものは立項している。
これまでに別殿行幸について論及した文献としては、奥野高廣氏の『戦国時代の宮廷生活』があるが、これは主に戦国時代の事例に基づいた研究であり、また奥野氏著書以外にはまとまった論考が見られないので、ここでは別殿行幸の概略について述べることとしたい。
別殿行幸の成立
そもそも天皇が皇居内において別の殿舎に渡御すること自体は、日常でも一定程度行われていたと思われるが、問題はそれが方違えと結びついて、いつ頃から「別殿行幸」と称されるようになるかということである。その始まりを確定することは難しいものの、史料上では鎌倉時代後期の後宇多天皇朝から別殿行幸のことが確認できる。すなわち、『勘仲記』弘安7年(1284)4月13日条によれば、後宇多天皇(18歳)が当時の里内裏である二条殿(二条高倉殿)内の一対妻に方違行幸したことが記され、前日の12日条にはこれを禁裏(天皇)の仰せとして「別殿行幸の儀」と明記しているのである。同様の別殿行幸は、同年中の閏4月・9月・10月にも行われ、また弘安9年(1286)・同10年にもそれぞれ複数回の実施が確認できる[本書339~342頁]。
では、何故この時期より別殿行幸が見られるようになるのであろうか。これには、弘安7年4月4日に鎌倉で執権北条時宗が死去したことが関係している。この「関東の穢れ」が京都洛中にも及ぶと認識され、同月13日に予定されていた後宇多天皇の皇居外への方違行幸を停止することになった。しかし、朝廷ではそれに代わる方違えを遂行するために、皇居内の別殿に移御するという形式を採り、これを以て「別殿行幸」と称するようになったのである(『勘仲記』弘安7年4月8日~13日条)。以後、別殿行幸の呼称は一般化し、その実施は江戸時代末期まで長く続くこととなる。
別殿行幸成立までの過程
上述のごとく、別殿行幸は後宇多朝までには成立しているようであるが、ではそこに至る過程はどのようなものであろうか。時代を遡って見てみたい。まず平安時代後期には、鳥羽天皇(5歳)が即位直後に皇居内の別の殿舎に渡御している例がある。すなわち、嘉承2年(1107)10月~閏10月、天皇が里内裏大炊殿にある准母令子内親王の御所=東対(渡廊)に渡御しているのである[本書242頁]。ただし、これが方違えによるものかどうかは不明であり、史料上も「行幸」ではなく「渡御」「渡給」とする。次に治承4年(1180)3月9日、安徳天皇(3歳)は里内裏五条東洞院殿の清涼殿代(寝殿)から旧東宮御所の西北舎に方違えし、また同月23日にも五条東洞院殿の西北廊に方違えしている(『山槐記』)[本書285頁]。この場合、方違えの目的で皇居内の別の建物に移っているので、実態としては別殿行幸と同様の行為と言えよう。ただし、史料上はやはり「行幸」ではなく「渡御」と記されている。
鎌倉時代に入り、正治2年(1200)2月27日、土御門天皇(6歳)は閑院内裏において摂政の直廬に方違行幸した[本書297頁]。『猪隈関白記』同日条に「今夜天皇、殿(近衛基通)の直廬に行幸す。御方違に依るなり」と記されるものである。ここでは皇居内の摂政直廬につき、まだ「別殿」という表記はなされていないが、摂政直廬への移御を「行幸」と記していることが注目される。また、嘉禎元年(1235)2月23日、四条天皇(5歳)は閑院内裏において方違えのため記録所に渡御する(『明月記』24日条)[本書317頁]。記録所は、後鳥羽朝の文治3年(1187)閑院内裏の中に開設された訴訟裁定機関で、建保元年(1213)の閑院再建後も継続して設置されていた。さらに宝治元年(1247)、後深草天皇(5歳)も閑院内裏において2月・5月・10月に記録所へ方違行幸する(『葉黄記』『百練抄』『吉黄記』)[本書324頁]。同天皇は、建長元年(1249)正月には摂政直廬に方違行幸し(『岡屋関白記』)[本書324頁]、建長6年(1254)3月・閏5月には再び記録所へ方違行幸している(『百練抄』)[本書327頁]。これらはいずれも閑院内裏内での移御であるが、史料上はすべて「行幸」と記される。
以上のような過程を踏まえると、平安時代後期から鎌倉時代中期にかけて方違えなどで皇居内の別の場所に移御している例はいずれも幼少の天皇であることが分かる。また移御先として選ばれた摂政直廬や記録所などは実質的には後の別殿と変わらないものであるが、まだ「別殿行幸」とは記されていない。つまり、別殿行幸の形式については、実態として平安時代後期より幼帝の場合に天皇の年齢を考慮して採用されることがあったが、鎌倉時代後期に至ると成人の天皇でも行われるようになった。それが明確になるのが、「別殿行幸」の呼称も現れる後宇多天皇朝であったと考えられる。
別殿行幸の日時・方角勘申
ところで、別殿行幸の主目的は方違えであるので、皇居の外に方違行幸する場合と同様、陰陽師によって事前に日時及び方角の勘申が行われた。ここでは、正親町天皇の天正4年(1576)の勘文を例として示す。同年12月16日、天皇は前陰陽頭土御門有脩に明年(天正5年、1577)の別殿行幸の日時と吉方を勘申させた[本書486頁]。『言経卿記』17日条には次のようにある(/は改行を示す)。
安三位より別殿行幸の日次、到来し了んぬ、(中略)
別殿行幸日
節分明年正月九日戊戌、時戌〈御方角 丑か午、御吉方 未か子、〉
二月廿二日庚辰、 時戌〈御方角 同前、〉/ 四月四日辛酉、 時戌〈御方角 同前、〉
五月十七日甲辰、 時戌〈御方角 同前、〉/ 六月廿九日乙酉、 時戌〈御方角 同前、〉
閏七月十一日丙寅、 時戌〈御方角 同前、〉/ 八月廿二日丙午、 時戌〈御方角 同前、〉
十月八日辛卯、 時戌〈御方角 同前、〉/ 十一月廿一日甲戌、時戌〈御方角 同前、〉
天正四年十二月十六日 従三位安倍朝臣有脩
まず、日時については、行幸日は明年正月の節分(9日)に始まり、以下、45日以内の間隔で吉日が選定されている。また時刻はいずれも戌刻(午後8時頃)が選ばれている。次に方角については、「御方角」すなわち当該年=天正5年の天皇の八卦忌方(凶方)に対し、その反対の方角が吉方とされている。この年、天皇は61歳となり、その年齢の八卦忌方は、凶方が艮(東北方)と離(南方)、吉方が坤(南西方)と坎(北方)と定まっている。これは、この勘文に凶方が丑か午の方角、吉方が未か子の方角とあることに合致する。したがって、当時の土御門内裏の常御殿を起点として、吉方の方角に位置する建物が別殿行幸先として選ばれたのである。同様の例は、慶長11年(1606)12月1日、後陽成天皇(36歳)が安倍久脩に勘申させた勘文にも見える(『日時勘文留』)[本書496頁]。
江戸時代前期の『後水尾院当時年中行事』には、「別殿の行幸ハいつれの御殿にても吉方したい用らる、但し、対やハ上臈のかきり、勾当内侍局まてハ例有り」と記される。これによれば、別殿行幸は吉方であればどの御殿でも用いるが、対屋については勾当内侍局までの事例に限られるという。こうした別殿の多様性を確認するため、室町・戦国時代の応永・康正両度の土御門内裏を例として、別殿行幸先に選ばれた建物をいくつか挙げておきたい。
<応永度土御門内裏>
・泉殿(応永13年(1406)/永享5年(1433)など)
・長橋局(応永32年(1425)など)
・大納言典侍局(永享12年(1440)など)
<康正度土御門内裏>
・黒戸(文明12年(1480)など)
・小御所(延徳2年(1490)など)
・知仁親王御所(永正2年(1505)など)
・記録所(天文13年(1544)など)
・紫宸殿(天文3年(1534)/天文5年(1536)など)
・紫宸殿後殿(天正4年(1576)など)
泉殿・女官の局・黒戸・小御所・記録所などに加え、戦国期には紫宸殿や紫宸殿後殿も別殿とされていることが留意される。その後江戸時代に入ると、上記殿舎の他に御三間・御学問所・御涼所・女御御殿なども別殿に充てられるようになる。
江戸末期の別殿行幸絵図
今回取り上げた別殿行幸は、ある意味、見立ての行幸とも言うべきものである。しかし、室町・戦国時代以降、財政上の問題などから天皇の皇居外への行幸が困難になっていくにつれて、皇居内で完結する別殿行幸はしだいにその比重を増していく。方違えを目的とする別殿行幸が年中行事化するのは、その一つの現れであろう。
最後に、江戸時代末期の宮廷行事を色彩豊かに画いた絵画史料『旧儀式図画帖』(東京国立博物館所蔵)に触れておきたい。この史料には、正月(あるいは2月)の年中行事の中で「節分別殿行幸」が掲載されており、そこには御涼所を別殿とする時の女官による豆まきの図、及び小御所を別殿とした際の廷臣による鶏声の図が見える(猪熊兼樹『『旧儀式図画帖』にみる宮廷の年中行事』)。後者の絵図に付された説明書きには、別殿での御盃が済んで女官が襖の内より「御鳥」(おとり)と告げると、廷臣が末広扇を出して鳥の羽ばたきをまね、小声で鶏の鳴き声を3度行うこと、天皇はこれを合図に常御殿に還御することなどが記されている。別殿方違行幸の際、夜明けを知らせる合図について、古くは暁の鐘の音であったものが、時代が下るにつれて鶏の鳴きまねに変わっているところも興味深く思われる。
【参考文献】
奥野高廣『戦国時代の宮廷生活』(続群書類従完成会、2004年)
猪熊兼樹『『旧儀式図画帖』にみる宮廷の年中行事』(東京国立博物館、2018年)
【執筆者】
詫間直樹(たくまなおき)
1959 年、香川県生まれ。1984 年、広島大学大学院文学研究科博士課程前期修了(日本古代史専攻)。宮内庁書陵部、宮内庁京都事務所での勤務を経て、現在は川村学園女子大学非常勤講師。
〔主な著書〕
『皇居行幸年表』(続群書類従完成会、1997 年)
『京都御所造営録』1 ~ 5(中央公論美術出版、2010 ~ 2015 年)
詫間直樹編『新皇居行幸年表』
本体11,000円+税
初版発行:2022年4月28日
A5判・上製・カバー装・624頁
ISBN 978-4-8406-2258-5 C3021