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出版部

明恵と茶——やさしい茶の歴史(九)(橋本素子)

明恵の茶に関わる一次史料

今回は、栄西と共に「茶祖」と言われ、「深瀬三本木」「駒の蹄影」といった複数の伝説に彩られている明恵(高弁)について見ていく。

まず今のところ、明恵において茶に関わる一次史料(同時代史料)は、二通の書状のみであることを確認しておきたい(以下意訳は筆者)。

鎌倉時代前期月未詳11日付「明恵書状」(妙法寺文書)

兵衛尉殿住房へ御出ましになると承っております。願状を持参なさるということですね。その際には、禅迦院で茶を差し上げたいと思います。すぐにお会いしてお話をいたしましょう。

十一日                               高弁

證月上人(慶政)御房

鎌倉時代前期月日未詳「明恵書状」(高山寺文書)

鶴禅師房に師範を授与されること、大変ありがたく存じます。また以前より依頼されていた茶実ですが、未熟ですので、熟しましたら、いくらかこれを進上いたしましょう。恐々謹言。

即時                                高弁

高雄上人(上覚房行慈)御房

最初の書状では、知己である慶政が来たら、茶でもてなすことを約束したものであり、後の書状では、高山寺境内に茶の木があり、叔父で神護寺僧である上覚房行慈に対して、茶実が熟したら送ることを約束したものである。

これらからは、高山寺境内には茶園があり、客に茶を出してもてなすことが出来る程度の生産量があること、茶樹を増やすには茶実を植えて育てる実生栽培であることがわかるのみである。

明恵「深瀬三本木」伝説とその成立

このように、明恵と茶を結ぶ一次史料は極めて限られている。

しかし、明恵と茶といえば、「深瀬三本木」という伝説が知られている。すなわち、

栄西が中国から持ち帰った茶実を漢柿蔕茶入に三粒(あるいは五粒)入れて、高山寺の明恵に送り、これを明恵が境内の深瀬に蒔いたのが、栂尾茶のはじまりである。

というものである。

何故、これが伝説と言えるのか。まず、一次史料がないこと、そして、この話しが、途中で内容に「ゆらぎ」が見られながら、徐々に形作られることが確認できるからである。

最初にこの話しが見られるのが、南北朝期以降成立『栂尾明恵上人伝記』下巻である(久保田淳・山口明穂校注『明恵上人集』岩波書店 1994年、156頁)。これを意訳すると、

栄西から茶をもらった明恵は、その効能を医師に尋ねたところ「疲れをとり、消化を促進させ快調にさせる徳がある」と答えたという。しかし日本では普及していないので、茶実を探して、三本分の茶実を境内にはじめて植えた。茶は、眠気を覚まし、気を払う徳があるので、衆僧にも飲ませた。

あるひとが語り伝えていうに、「栄西が中国から持って帰ってきた茶実を明恵に送ったので、それを植えて育てたのである」ということである。

となる。

つまり前半では、明恵は自力で茶実を探し出して高山寺境内に植えている。いっぽう後半では、栄西から茶実をもらいそれを植えたことになっている。言うまでもなく、後半の内容がベースになって「深瀬三本木」の話が成立するのではあるが、前半にも「両三本」と「三本木」たる所以を思わせる内容も見られる。

次に、応永27年(1420)成立とされる『海人藻芥(あまのもくず)』には、

栄西が入宋の時、重ねて茶実を栂尾高山寺に渡され、明恵上人がこれを植えた。そのため、本の茶というのは栂尾茶のことである。非というのは宇治等のことである。

とある。ここで概ね「深瀬三本木」伝説のあらすじが出来上がっている。しかも、栂尾茶が本茶で、宇治等その他が非茶とあるように、その背景には闘茶の一種である「本非茶(ほんぴちゃ)」の流行があることが読み取れる。本非茶とは、「本茶」である栂尾茶と、その他の産地の茶である「非茶」を飲み分けるゲームである。また栂尾茶が「本茶」たるゆえんは、中国から持ち帰られた茶であることにあることがわかる。

そして、文明・延徳期成立の百科事典『塵荊鈔(じんけいしょう)』綱目第十になると(市古貞次編 古典文庫『塵荊鈔 下』古典文庫 1974年、358頁)、

日本には栄西が、宋から茶実を持ち帰って、明恵に渡された。(中略)その後、諸方に流布し、まず宇治の朝日山、仁和寺の初番、深瀬の小葉、小畑の秋萌、(以下略)

と、各地で栽培されるようになったとしている。

ここで栄西から明恵に茶実が渡されるという本筋の話に、栂尾茶から全国に茶の栽培が広まるという話が加えられているのである。

しかし、まだまだ話は作られ続けるのである。すなわち、永禄7年(1564)堺の茶人真松斎春渓の『分類草人木(ぶんるいそうじんもく)』では、

茶園は、栂尾の明恵が中国から茶実を持ち帰ってこれを作った。

とあるではないか。栄西の茶実伝来の話が、明恵にすり替わっているのである。むろん、明恵は中国には行っていない。行きたい気持ちはあったが、春日明神の託宣により渡航を断念したとされている。

このように、「深瀬三本木」伝説は、その内容に「ゆらぎ」が見られながらも、徐々に作り上げられた。作り上げられた後も、尾ひれがついて、なお育っていくさまがわかるのである。

【今回の八木書店の本】
『海人藻芥』(『群書類従 第二十八輯 雑部』〔オンデマンド版〕八木書店 2013年)


橋本素子(はしもともとこ)
1965年岩手県生まれ。神奈川県出身
奈良女子大学大学院文学研究科修了
元(公社)京都府茶業会議所学識経験理事
現在、京都芸術大学非常勤講師

〔主要著書・論文〕
『中世の喫茶文化―儀礼の茶から「茶の湯」へ―』(吉川弘文館、2018年)
『日本茶の歴史』(淡交社、2016年)
『講座日本茶の湯全史 第一巻中世』(茶の湯文化学会編、思文閣出版、共著、2013年)
「宇治茶の伝説と史実」(第18回櫻井徳太郎賞受賞論文・作文集『歴史民俗研究』、板橋区教育委員会、2020年)
「中世後期「御成」における喫茶文化の受容について」(『茶の湯文化学』26、2016年)