当梁年と内裏造営 ―『新皇居行幸年表』編集余滴2(詫間直樹)
平安時代中期以降、内裏あるいは里内裏が相次いで焼亡するが、朝廷はその都度、再建の努力を重ねてきた。『新皇居行幸年表』では当然こうした事柄の年月日を掲出しているが、年表という性格上、なぜそのような造営経過をたどったのかなどの具体的な理由までは記していない。そこで、今回は特に内裏の立柱・上棟の時期に影響を及ぼした陰陽道の当梁年(とうりょうねん)などの禁忌を取り上げてみたい。
当梁年・天梁・地梁などの禁忌
当梁年とは建築に関わる陰陽道の年忌で、戊子・戊午・己卯・己酉の年に皇居などの正殿の立柱・上棟を忌む思想である。同様の年忌には、ほかにも天梁(てんりょう)・地梁(ちりょう)・天柱(てんちゅう)・地柱(ちちゅう)と呼ばれるものがある。中国の陰陽書である『新撰陰陽書』(しんせんおんみょうしょ。唐代五行家説を集成。日本の陰陽道で最重要テキストとされた)や『群忌隆集』(ぐんきりゅうしゅう。年中行事に関する逸文を含む雑暦書的性格の陰陽書)に基づいた日本の陰陽書『陰陽博士安倍孝重勘進記』(鎌倉時代前期の1210年成立)および『陰陽吉凶抄』(鎌倉時代中期成立)の記述をまとめると次のようになる(※印は『群忌隆集』の説)。
当梁=戊子・戊午・己卯・己酉の年(梁上げは凶)・・・※「四挙歳」(築室不利)とす
天梁=戊戌の年(梁上げは凶)・・・・・・・・・・・・※ 戊辰・戊戌の年とす
地梁=戊辰の年(柱立ては凶)・・・・・・・・・・・・※ 庚辰・庚戌の年とす
天柱=己亥の年(柱立ては凶)
地柱=己巳の年(柱立ては凶)
また、『新撰陰陽書』によれば各年忌(当梁年、天梁・地梁・天柱・地柱)では、「正堂」・「正寝」(ともに宮殿などの正殿を指す)に相当する建物の柱立てと梁上げを忌むが、それ以外の屋舎には忌みがかからないという。しかし、それにもかかわらず、わが国において天梁もしくは地梁の年に「正堂」・「正寝」を造営した前例として、『陰陽吉凶抄』などでは、元慶2年(878)=戊戌年(天梁の年)に大極殿を立てた例[本書157・158頁]と、寛弘7年(1010)=庚戌年(地梁の年)に里内裏一条院の寝殿を立てた例[本書200頁]が挙げられている。
これ以後、平安時代において梁年の禁忌が内裏・里内裏の造営の進捗に関わった例としては、長久度の内裏造営、延久度の内裏造営、里内裏土御門烏丸殿の造営などがあるので、それぞれについて見ていきたい。
長久度の内裏造営と梁年
長久度の内裏造営は、長暦3年(1039)6月に焼亡した平安宮内裏を、約2年半後の長久2年(1041)12月に再建したものである[本書211・212頁]。長暦3年は己卯年で当梁年(『新撰陰陽書』)、翌年の長久元年は庚辰年で地梁の年(『群忌隆集』)に当たることから、両年の内裏立柱・上棟が避けられた。すなわち、国宛(諸国への造内裏役賦課)は長久元年5月に、造作始は同年10月に行われたものの、立柱・上棟は年忌が明けた長久2年の2月になされているのである(『春記』)。
これに関し、院政期に大外記を務めた中原師元は、藤原忠実との言談の中で「漢家・本朝、当梁年に造作の例、その数候故なり、但し長久度は、今年材木を採り、明年造宮あるべき由、御前定に候」と述べている(『中外抄』下)。これによれば、長久度には後朱雀天皇の御前定で、梁年であることを理由として造宮が翌年に延ばされたという。ただし、忌年の間は新造内裏の材木の採取に充てたとあるので、逆に梁年の禁忌を利用して立柱までの準備期間を確保した側面もあったのではないかと思われる。なお忠実は、長久元年に梁年の忌みを避けたことにつき、後朱雀天皇の時代には陰陽道の禁忌などを固く守ることが多かったからであろうと指摘しているが(『中外抄』下)、現実的な問題として、長久元年9月には追い打ちをかけるように里内裏の京極院も焼亡したので、当面は新たな御在所の選定とその改修を急ぐ必要が生じたことを考えると、長久2年の立柱・上棟は妥当な工程であった。
延久度の内裏造営と梁年
後三条天皇が即位した治暦4年(1068)は、前代の後冷泉朝に焼失した内裏・大極殿・八省院・豊楽院が未再建のまま放置され、平安宮がこれまでで最も衰退した状況を呈していた。後三条天皇がまず初めに造営に着手したのは大極殿であるが、即位礼の儀場として太政官庁が選ばれた結果、大極殿の完成は急ぐ必要がなくなり、延久3年(1071)8月、内裏の方が先に竣工することとなった(大極殿竣工は翌年4月)[本書221~224頁]。しかし、内裏造営の過程においては、延久元年が己酉年で当梁年に相当したことから、同年正月、御前にて梁年定が行われ(『水左記』)、翌月に諸道勘申に基づいて、この年の造営を避けることが決定された(『百練抄』)。
また、翌延久2年も庚戌年で地梁の年であったためか、その年は3月に内裏造営の事始がなされただけで、立柱・上棟は1年後の延久3年3月に至り行われている。そして同年8月、完成した新造内裏に天皇が遷御した。ただし、その間の延久元年には有名な延久荘園整理令が出され、造内裏の分担が諸国に国宛されたとみられるので、当梁年の禁忌により内裏の立柱・上棟の期日が延びたのは、長久度と同じく、今回も朝廷としてはむしろ都合が良かったのであろう。後三条天皇としては、父後朱雀天皇が行った内裏再建の進め方を踏襲した面もあったのではなかろうか。
一方、大極殿については治暦4年10月の上棟の後、当梁年に当たる延久元年の6月に八省院(朝堂院)の蒼龍・白虎両楼と壇上廊の立柱・上棟が行われている(『土右記』)。これは、上述のように、当梁年の忌みが「正堂」に相当する大極殿に限られたので、楼閣などを上棟することについては問題がなかったからであろう。大極殿の後殿たる小安殿も同様に「正堂」には当たらない。そして、それから約3年後の延久4年4月に至り、後三条天皇が力を注いだ大極殿と八省院の再建が成った。なお、この大極殿はその後100年余り存続し、治承元年(1177)4月の焼亡により廃絶する[本書282頁]。
里内裏土御門烏丸殿の造営と梁年
平安宮内裏が衰退した院政期の永久5年(1117)、本来の内裏を模して造られた本格的な里内裏として土御門烏丸殿(土御門烏丸内裏とも)が新造される。その後、崇徳朝の保延4年(1138)11月に焼亡するが、このときは早くも翌年に上棟が行われ、翌保延6年に再建された[本書255~257頁]。なお、この再建に関して土御門烏丸殿に「裏築垣」が存在したことが最近になって確認された。しかし、土御門烏丸殿は近衛朝の久安4年(1148)6月に焼亡した[本書260頁]後は、いくつかの要因により再建に至らず廃絶する。ここで朝廷が2度目の焼亡後直ちに造営に着手しなかった理由は、久安4年が戊辰年であり、地梁(『群忌隆集』では天梁)の年に相当したからであった。
焼亡後の主な経過は次のとおりである(主に『本朝世紀』による)。久安4年閏6月9日、戊辰年で地梁に当たるため、造宮の可否を諸道に勘申するよう宣下。15日、造宮を憚るか否かの公卿議定開催。このとき里内裏の土御門烏丸殿であっても寝殿(正殿)が「正堂」・「正寝」にあてはまるかどうかが問題となった。摂政藤原忠通は当梁年を忌むことが多くの書籍に見えるので造宮は忌むべしと言い、「正堂」「正寝」問題は追って確認することとした。また18日には、木工頭平範家が摂政の仰せにより①当梁年に造宮を行った例、②土御門烏丸殿を以て正堂となすべきかどうかを儒者等に問う。これに応じて21日、入道少納言藤原通憲(信西)の勘申が出される(②の答申、『石清水文書』)。29日、里内裏であっても土御門烏丸殿の寝殿は「正寝」に相当するので、梁年には立柱・上棟すべきではなく、造宮の事は無沙汰と決定する。なお、この日鳥羽法皇からは「治暦五年(延久元年)は当梁年の事により、諸道をして勘申せしめ、大極殿の棟を上げられずと云々、後三条院御記に見ゆ、仍って一向に其の沙汰無し、明鏡と謂うべきか」という仰せがあった。今回、梁年によって造宮を避けることは後三条朝の嘉例にも叶うという趣旨であるが、延久度の大極殿の上棟は、当梁年たる治暦5年(延久元年)ではなく、その前年=治暦4年に行われているので、この鳥羽法皇の発言内容は内裏と大極殿を混同したものと考えられる。
摂政忠通や鳥羽法皇の意向もあり、梁年となる久安4年中の土御門烏丸殿造営は行われないことになった。しかし、同殿にとっては、このことが結果的には悪い方向に作用した。翌年の久安5年は己巳年で地柱の年に当たるので、この年も造宮が見送られたらしい。ただし、久安6年には伊予国弓削荘に「土御門内裏造料材木」が課されており(『平安遺文』6-2709号)、造内裏役の諸国への賦課はなされていた。そして実際の造作は仁平2年(1152)から始められたが、同年の中宮藤原呈子の懐妊や、翌年の大風などのため造営が中断された[本書263頁]。その後、後白河朝になって保元元年(1156)4月に改めて造営事始がなされ、8月2日には上棟が予定されるも(『兵範記』)、同年7月に保元の乱が勃発し、里内裏土御門烏丸殿は、遂に再建されることなく廃絶したのである[本書266頁]。かつて、一条天皇朝には地梁の年であっても里内裏一条院の寝殿が立てられたが、この度の土御門烏丸殿ではそれが忌避された。これは院政期以降、陰陽道の禁忌が拡大するという時代の相違も考慮すべきだが、土御門烏丸殿が平安宮内裏に匹敵する皇居と位置づけられていたからでもあろう。
以上に述べた梁年の禁忌について、もう少し前後の時代を見ると、摂関期には長元元年(1028)が戊辰年で梁年に当たるので、関白藤原頼通が自身の邸宅高陽院などの寝殿の造作を停止した例がある(『左経記』長元元年7月19日条、『小右記』同年7月20日条)。一方、鎌倉時代に入ると、例えば承久元年(1219)が己卯年で当梁年であるため、平安宮内裏造営の可否について諸道に勘申が命じられている(『百練抄』承久元年11月19日条)。また建長元年(1249)は己酉年で当梁年、翌年は庚戌年で地梁の年であるので、閑院内裏の造営の可否について、やはり諸道に勘申が命じられている(『百練抄』建長元年3月19日・8月4日条、『岡屋関白記』同年3月13日条)。今後はこうした同様の事例について、さらに時代や建築対象を広げて確認する必要があろう。
【主な参考文献】
・山下克明「陰陽道の典拠」(『平安時代の宗教文化と陰陽道』岩田書院、1996年、初出1982年)
・川本重雄「土御門烏丸内裏の復原的研究」(『日本建築学会論文報告集』335、1984年)
・『新日本古典文学大系32 江談抄 中外抄 富家語』(岩波書店、1997年)
・濵島正士「古代における建築工事の工程と儀式」(『国立歴史民俗博物館研究報告』77、1999年)
・古橋紀宏「藤原通憲「王宮正堂正寝勘文」とその禮圖について」(『東アジアの宗教と文化』京都大学人文科学研究所、2007年)
・田島公「土御門烏丸内裏造営と「裏築垣」-陽明文庫本『除目次第』紙背文書から-」(『国際研究集会「御所(宮殿)・邸宅造営関係資料の地脈と新天地」報告集』2021年)
・詫間直樹「延久度造宮事業と後三条親政」(『書陵部紀要』40、1989年)
【執筆者】
詫間直樹(たくまなおき)
1959 年、香川県生まれ。1984 年、広島大学大学院文学研究科博士課程前期修了(日本古代史専攻)。宮内庁書陵部、宮内庁京都事務所での勤務を経て、現在は川村学園女子大学非常勤講師。
〔主な著書〕
『皇居行幸年表』(続群書類従完成会、1997 年)
『京都御所造営録』1 ~ 5(中央公論美術出版、2010 ~ 2015 年)
詫間直樹編『新皇居行幸年表』
本体11,000円+税
初版発行:2022年4月28日
A5判・上製・カバー装・624頁
ISBN 978-4-8406-2258-5 C3021