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出版部

『瑞龍公実録』を読む(藤田英昭)

記録の少ない江戸時代初期の重要史料のひとつ、徳川林政史研究所所蔵の「瑞龍公実録(ずいりゅうこうじつろく)」が初めて全文翻刻された。本書は、尾張徳川家2代当主徳川光友(寛永2年〔1625〕~元禄13年〔1700〕)の事績録で、書名は法諡に由来する。このたびの出版には「瑞龍院様御代奉書并御書付類之写」も参考史料として収録。その内容、読みどころを校訂者が紹介する。

職制整備と光友の意思

徳川光友が尾張家当主(藩主)として在任したのは、3代将軍家光の晩年から5代将軍綱吉の時代で、足かけ44年間であった(慶安3年〔1650〕~元禄6年〔1693〕)。この年数は歴代の中で最も長い。父義直も同じ期間当主を務めたので、親子で歴代最長の治世を誇ったことになる。ただし、光友の場合、隠退した後も、息子である3代綱誠の死去に伴って、「大殿」として孫の4代吉通を一時後見していたので、名実ともに歴代の中で最も長く藩政に関与していた当主であった。数え年76年の生涯も、歴代最長である。

治世が長かったことを象徴するように、光友の治世下には尾張藩の職制・機構の整備が本格的に進んだ。本書を読み進めると、「初而出来」「初而被仰付」などといった記事が頻出する。前後の記事を併せ読むことで、職制整備の因果関係も知れよう。

具体例を示してみよう。熱田船番所が初めて設けられたのは慶安5年(1652)6月のこと(13頁)。そのきっかけは、前年に発生した由井正雪の乱(慶安事件)の残党狩りにあった。幕府の大坂目付も整備に関わっていたことから、尾張国内が藩政のみで完結するのではなく、幕政にも直接関わる領国であったことが改めて浮き彫りになる。

同じことは、万治4年(1661)5月晦日に初めて設けられた吉利支丹奉行でもいえる(54頁)。義直当主時代の寛永12年(1635)8月にキリシタン穿鑿に関する幕府老中連署奉書が達せられたが(254頁)、藩内での取締が不十分だったと見え、幕府の肝煎で吉利支丹奉行が設けられるに至るのである。該当記事を見ると、宗門改を担当していた幕府大目付の北条安房守の指導があったことがわかる。尾張藩内のキリシタン取締が厳格であったことは有名だが、それは幕府の威信がかかっていたからこそであったろう。

また、寛文4年(1664)に建てられた尾張藩の御国奉行や町奉行の役宅は、「従公義御作事」であったとされている(69頁)。

このように幕府が関与した職制・機構整備があった一方で、幕府が関わらない藩独自のものも当然あった。名古屋城三之丸天王社内の銀杏に「釘を打、呪詛之事年久」ために、寛文12年5月2日に設置されたという辻番所や(108頁)、光友が名古屋を留守にしている間、城内小納戸に盗人が入り、長持ちが盗まれたために、延宝2年(1674)2月に定められたとされる奧御番衆の宿番(113頁)などは、その一例である。

尾張藩のような徳川一門の場合、制度創出の過程で幕府が関与したか否かを見極めることは、職制の位置づけにも関わるだけに重要である。その分析に本書は応えてくれるに違いない。

記事にある「被仰付」「被仰出」「被下置」という表現は、いうまでもなく光友の意思が介在していたことを示す。とりわけ光友の意思として重要なのは、家老らの取締に関してであった。

延宝4年(1676)7月、大風雨による庄内川の出水で、枇杷島川が氾濫した。堤防決壊の危機であったが、諸役人の奔走で事なきを得たという。しかし、この事態に家老ら首脳部は「怠慢」であった。この時光友は、横須賀潮湯治のため名古屋を不在にしていたが(本件は、本書所収萱田寛也「解題」参照)、家老の竹腰正辰も知多郡で湯治の最中、同じく成瀬正景も、下屋敷に汲み湯して保養中で枇杷島に出張しなかったという。これを知った光友は激怒。両名を叱責するとともに、家老が無断で下屋敷に外泊することは以後厳禁となった。

この一件は、当主が不在であっても、家老が諸般を指揮する権限を有していたことを物語っている。それが、全く機能しなかったため、光友は危機管理の不徹底さを衝いたのである。尾張藩政における要が家老であるならば、それを抜かりなく差配するのが当主の役割であったといえるのではなかろうか。

光友が、禁裏御所に『薩戒記』(中山定親日記)や『中右記』(藤原宗忠日記)などの古記録の借用を願い出て文化活動を行えるのも(311頁)、家老を中心に藩政が円滑に進んでいたからに他ならなかった。川島孝一氏の調査によれば、現在、名古屋市蓬左文庫には「薩戒記」全五一冊の写本が所蔵されている。写本には奥書などなく、確かな経緯は不明であるが、あるいは光友が関与した写本という可能性もある。

義行・義昌の立場

御三家の庶流は、「御連枝」とよばれ、尾張徳川家では光友の二男義行を祖とする四谷家、三男義昌に始まる大久保家、十一男友著の川田久保家があった。家の名前は江戸屋敷の所在地に由来し、いずれも松平を名字とした。

なかでも四谷家の祖義行は、正室千代姫の子で、将軍家光の孫であったため、母を同じくする嫡男綱誠に準ずる待遇であった。義昌は、光友の側室勘解由小路(のちの松寿院)を母としたため、本来は長男であったが千代姫を憚って三男とされたものである。しかし、寛文5年(1665)8月に千代姫の養子となったことから(75~76頁)、義行とともに同6年12月に従四位下少将に叙任(84頁)。その後、延宝9年(1681)、義行が信濃国三郡で新知3万石を拝領した後、天和3年(1683)に義昌は陸奥国簗川で新知三万石を給わるなど、ともに家門としての待遇を受けていった。義行の領分は、元禄13年(1700)に半知を美濃国高須に所替えし、そこに陣屋を構えたので、四谷家は高須松平家あるいは高須藩とも呼称された。

一方、川田久保家の友著の場合、元禄6年(1693)2月に、光友から現石5000石を合力された(192頁)。翌7年千代姫の養子となり、同年光友の家督を継いだ綱誠から1万石を加えられて、計1万5000石の大名となった。しかし、諸大夫(従五位下)のままで、本書の対象外であるが、正徳元年(1711)に譜代大名の列とされている。

大久保家・川田久保家がともに中途で断絶したのに対し、四谷家(高須松平家)は断絶することなく維新を迎えた。本家に継嗣がいない場合は、相続者を差し出すなど、四谷家出身で尾張家当主となった者も少なくない(8代宗勝、14代慶勝、15代茂徳)。こうしたことから、四谷家は、本家尾張家の備えとして設けられた「支藩」として位置づけられてきた(林董一「支藩考―美濃高須藩の場合―」『史学雑誌』71編11号)。あたかも、徳川将軍家における御三家のごとき役割である。または、本家の当主が幼少かつ病弱である場合は、四谷家当主がこれを補佐する責務があるなどとも評価されてきた。しかも、こうした役割は、「瑞龍院様思召」によっていたという。

だが、これらはすべて結果から遡及した位置づけであって、当初から光友が尾張家の備えとして義行ら庶子を見ていたわけではない。事実、『瑞龍公実録』には、光友の「思召」に関する記述は全く見られないのである。

光友の庶子で注目できるのは、義行・義昌・友著の3名が千代姫の養子となっていたことである。周知のように、千代姫は3代将軍家光の長女であった。つまり、千代姫は、4代将軍家綱および5代将軍綱吉の姉にあたっているのである。伝聞によると、千代姫は気位がかなり高い女性であったといわれる(「昔咄」『名古屋叢書 第二十四巻・雑纂編(1)』)。綱吉治世下に義行・義昌が新知拝領したのは、千代姫の影響を考慮に入れても良いかも知れない。友著が、千代姫の養子になりながら合力米のみで新知を下されなかったのは、千代姫が元禄11年に死去していたこと、そして友著が譜代大名に列した正徳元年は、すでに綱吉すら没し、将軍は6代家宣に代替わりしていたことを踏まえる必要があろう。

では、光友治世下において、義行や義昌はどのような役割を果たしていたのであろうか。その一端として注目できるのは、両名が光友の参府御暇に「御同道」していることである(「御供」ではない。本件は、本書所収池ノ谷匡祐「解題」参照)。この「御同道」は、寛文6年(1666)、光友の「御眩暈御病脳」の「御看病」に、16歳の義昌が「御同道」したことに始まった(79頁。寛文6年は光友の横須賀潮湯治が始まった年で、光友の体調に変化が生じた年でもある)。寛文12年からは、17歳になった義行が「初而御同道」し(106頁)、以後二人が交互におこなった。要するに、二人は交替で名古屋と江戸とに詰めていたことになる。元禄11年の最後の御暇のみ、友著(21歳)が同行している。

こうしてみると、義行・義昌は、尾張家とは別に領知判物を下された万石以上(従四位下少将)ではあったものの、単独で参府しているわけではないのである。あくまでも病気かつ老齢の光友に同行する、まさに息子として父親を支える存在なのであった。こうした両名を、万石以上であるからといって一様に「藩」と呼称するのは違和感があるまいか。

大名庶子ないし分家のありようも、各大名家によって違いがあろう。「支藩」という呼称は、その多様なあり方を一律化させかねない。それぞれの庶子・分家の同時代における役割・存在形態を丹念に跡づけていく必要があるように思われる。

ところで、義行は、将軍代替わり時など、単独で参府する場合も見られたが(137頁)、本書で見る限り、義昌はそうしたことは見られない。義昌については、本書を通読して気づくのは、光友との距離の近さである。

例えば、元禄9年(1696)4月29日、既に隠居している72歳の光友は、名古屋の義昌邸に御成し、江戸より呼び寄せた山本土佐掾弟子による操浄瑠璃を終日楽しんでいる(210頁)。そのご相伴に与ったのが、光友の側室にして義昌の生母でもあった勘解由小路なのであった。まさに親子みずいらずでのプライベートな遊興である。

もちろん、光友が義行邸を訪れることもあったのだが、それはあくまで義行の結婚などに際しての公的な場合がほとんどであった。義昌の場合は、公的以外の私的な交流が特に目に付くのである。光友の横須賀潮湯治に同行するのも義昌であったし(萱田解題)、元禄3年11月に、光友が名古屋の竹腰友正邸に御成した際、相伴したのも義昌であった(179頁)。友正は、光友が息子以外で偏諱を与えた唯一の人物で、光友の従弟・竹腰正晴の子であった。光友にとっては肉親に近い間柄である。その友正邸に義昌を同行させているのである。

義昌は三男とされているものの、光友にとっては初めての男子である。それゆえに特別な思いを抱いていたとしても不思議ではない。それは義昌を産んだ勘解由小路に対しても同様であった。事実、河内国玉手山安福寺(大阪府柏原市)の瑞龍公廟所には、光友の宝筺印塔の両脇に義昌および勘解由小路の石塔が建っているのである(本書所収藤田英昭「解題」)。

一方の義行は、前述の通り、嫡男綱誠とともに正室千代姫の子、いわば将軍家光の孫である。将軍家との関係を踏まえれば、重要な男子であるが、将軍の血筋であったればこそ、実子とはいえ気を遣う存在であったのではないかと推測したくなる。

そうであるならば、義行に始まる四谷家(高須松平家)は、尾張本家の備えとして設けられたという理解は、やや単純に過ぎるであろう。やはり、その後、義昌に始まる大久保家が断絶し、他方、四谷家当主が尾張家の幼少当主を後見したり、本家相続者を輩出したりといった歴史的経緯を踏まえて創出された由緒であったと見なければなるまい。併せて、いわゆる本家・分家関係も普遍的なものではなく、当主同士の血筋、関係性により変化していくものであろう。これらを踏まえた丁寧な検討が必要となる。

乱世を知らない武士たち

本書には、徳川光友やその子弟たちの動向だけではなく、その治世下に起きたさまざまな事件も収録されている。そのことが、ある意味で本書の歴史史料としての価値を高めている。本書に記載された尾張藩士の喧嘩は56件、喧嘩にかかわった改易も少なくなかった(本件は、本書所収林幸太郎「解題」参照)。喧嘩・改易について、本書ではそのすべてを標出している。

喧嘩が原因の改易(武士身分の剥奪)は、現代でも比較的理解しやすいだろうが、今では思いもよらない理由で改易されることもしばしば見られた。そのいくつかを本書から紹介し、当時の武士の意識に迫ってみよう。

寛文4年(1664)2月18日、目付曲渕藤兵衛忠恒(300石)が改易された(67頁)。その理由は以下の通りである。

自分御長屋江盗人来、下々雑物盗出候処、折節曲渕御殿帰り行合、怪見之、盗人ニ相究候ニ付、跡より追駈、藤兵衛途中ニ而倒、其間盗人逃、不知行方、

すなわち、曲渕の長屋に泥棒が入り、日用品が盗まれた。曲渕は御殿からの退勤がけにその場に遭遇、怪しいと思い泥棒と確信し、跡より追いかけた。ところがあろう事か、曲渕は途中で転倒し、泥棒を捕り逃がしてしまったのである。曲渕は「始末不相届」ことが原因で改易とされた。武士でありながら、相手の泥棒に逃げられ、結局自身の失態もあって捕まえることができず、武士の名誉を著しく疵付けられたからに他なるまい。「藩士名寄」には、「於江戸不調法」があったため改易に処せられたとある。ただし、寛文12年には帰参が叶い、御馬廻組に仰せ付けられている。延宝元年(1673)12月にはもとの通り知行300石が下され、光友の黒印状も拝領した。こうしてみると、不始末があると一旦は罰せられるが、一定の年数が経つと許され、元の鞘に収まっていることがわかる。

寛文4年2月25日には、足軽頭下方左近貞政(540石)が改易される事件があった(67頁)。理由はこうである。「支配之御門外喧嘩有之騒動、御目付衆田代武兵衛駈合、再往使遣候得共、称病臥而竟不出」。下方貞政は、自分の取締担当の門外で喧嘩があった際、目付から何度呼びかけがあっても病と称して出てこなかったという。あるいは臆病風にでも吹かれたのだろうか、職務怠慢の科で改易に処せられてしまった。この一件で、貞政の子の代右衛門政時(書院番)、弥兵衛(長野数馬同心)、助十郎(小納戸)も父に連座して家中を立ち退くこととなった。父貞政はその後隠居し死去するも、息子たち三人は後年召し返され、前職に帰り咲いている。

また、天和元年(1681)冬には、小性の朝比奈門之助と中嶋半六が処罰される一件があった(141頁)。ある日、日光輪王寺宮が尾張家を来訪した際、その給仕に粗相があったのか、小性衆すべてを「御叱」になった時があった。小性たちはみな神妙に説教を受けている。こうしたなかで、門之助と半六の二人はこそこそ笑っていたというのである。これが不届きだとする処罰であった。もっとも、門之助は改易、半六は閉門という違いがあった。なぜこうした違いが生じたのか。

二人を取り調べた際、半六は笑ったことを「有體ニ答之」であったという。一方の門之助は「堅笑不申候段申募」と、笑ったことを頑として認めなかった。つまり門之助は嘘をついたことになる。結果、彼は「士家ニ不似合偽を申上」たために改易となり、事実を正直に話した半六は、一等を宥されて閉門に処せられた。虚言を吐くことは、主君への不忠にも繋がりかねない。武士の社会正義に反する行為だったことがわかる。たとえ行為に間違いがあっても、正直に認めることが士道に叶うことであった。門之助がその後召し返されたかどうかは定かではない。

改易されたわけではないが、武士にあるまじき行為のため、自発的に家中を立ち退くケースも見られた。武士を象徴する刀の取り扱いに関して、本書から二つ事例を紹介しよう。ともに元禄8年(1695)9月の隠居光友の参府時に起こった事件である(207頁)。

一つは、光友付の書院番新見安右衛門の場合である。安右衛門は光友に先だって8月28日に尾張を出立したが、道中の新居宿(遠江国)で刀を落としてしまった。それに気付かず、船渡しまで来たところで、同僚が見つけて刀を届けてくれた。この一件で、安右衛門は江戸到着後の9月13日に家中を立ち退いた。刀を落としても気が付かず、他人に届けてもらったことを恥と認めた行為であったろう。

二つ目は目付石黒作兵衛(500石)の事例である。道中騎馬であった作兵衛は、小田原城下を越えた酒匂川で脇差鞘を落としてしまった。当初は気付かなかったが、後から気付いて捜索したという。しかし結局見つからなかったのか、江戸到着後に御役御用が済んだ後、9月14日に立ち退いた。「藩士名寄」には、「不調法至極之段、迷惑仕、御奉公難相勤」ためであったとある。これは、脇差鞘を落として、後で気が付いたものの、結局見つからなかったため、士道不覚悟を自認し、責任を取った恰好である。このように刀の不始末は、武士にとって進退を左右する一大事件であったことがわかる。それは泰平の時代であっても変わることはなかった。

「刀の忘れ物」については、元禄期の尾張藩士・朝日文左衛門の日記をもとにした、神坂次郎のロングセラー『元禄御畳奉行の日記』(中公新書、1984年)にも登場する。文左衛門自身も、町の辻で猿若舞に心奪われている間に、脇差しの刀身を抜き取られた経験があった。「但し鞘は残る」というから不思議である(元禄6年2月21日)。彼の場合、刀を無くしたことが明るみに出なかったためか、家中を立ち退くことはなかった。露顕しなければ、何事もなかったかのように平穏な日常が続いた。

いずれにしても、不文律のごとき武士の身の処し方は、いつ頃からできあがってきたのか。時代や社会の変化に応じて、武士の発想法も変わっていったに違いない。その意味で、本書は戦国乱世を知らない武士たちの道徳規範や習慣、生き方を知る上での素材の一つとなろう。

いくつかのテーマに即して本書の内容を紹介してきたが、ほかにも尾張藩主と領内および周辺地域との関係、江戸中期の贈答献上儀礼のありよう、名古屋城下の風俗など、多彩な内容が本書に収められている。多方面での活用に期待したい。


【著者】
藤田 英昭(ふじた ひであき)
中央大学大学院文学研究科日本史学専攻博士後期課程を経て、現在、公益財団法人徳川黎明会徳川林政史研究所研究員。
学習院女子大学・大東文化大学非常勤講師。

〔主な著作〕
『論集 大奥人物研究』(共編著、東京堂出版、2019年)
『論集 近世国家と幕府・藩』(共著、幕藩研究会編、岩田書院、2019年)
『江戸時代の森林と地域社会』(共著、徳川林政史研究所、2018年)
『明治維新史論集1 幕末維新の政治と人物』(共著、明治維新史学会編、有志舎、2016年)
『史料纂集 古記録編 源敬様御代御記録』第二~第四(共同校訂、八木書店、2016年~2019年)
「尾張徳川家『押付』養子に関する一考察」(徳川林政史研究所『研究紀要』56号、『金鯱叢書』49輯所収、2022年)