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出版部

やさしい茶の歴史(七)(橋本素子)

宋風喫茶文化の伝来

前回までは、9世紀初めに伝来した唐風喫茶文化の受容とその広がりを見てきた。すなわち院政期までには、貴族社会と寺院社会に定着しており、これまで茶道史の通史で言われてきたように、廃れてはいなかった。

今回は、院政期から鎌倉時代初期にかけて、新たに伝来した喫茶文化である、宋風喫茶文化についてみていく。

これまで、宋風喫茶文化を伝えたのは、明庵栄西であるとされてきた。結論から言えば、栄西も宋風喫茶文化を伝えた人物のひとりである。しかし日本のある場所には、それ以前から伝来していた可能性が出てきた。それが、筑前国博多津であった。

博多から出土した天目(てんもく)

福岡県福岡市博多では、1977年以降、断続的に博多遺跡群の発掘調査が行われてきた。なかでも、12世紀前半の唐房(チャイナタウン)の博多綱首(はかたこうしゅ、宋の貿易商)屋敷跡から、天目が出土している(大庭康時『中世日本最大の貿易都市 博多遺跡群』新泉社、2009年)。

天目とは、「すっぽん口」といわれる浅く開いたすり鉢形の、鉄釉をかけた陶器のことをいう。

天目は、これまで抹茶を飲む茶器とされていたため、天目の出土はイコール抹茶(点茶法の茶)を飲んでいたことを示していると判断されてきた。

これについては、天目で抹茶を飲んだ蓋然性が高いものの、湯や酒などの飲用など、ほかの用途の可能性も残している。桐山秀穂氏からは、抹茶を飲んでいたことを証明するためには、天目と共に、粉砕する道具である茶臼の出土があることが求められるとのご教示を得た。しかし博多での茶臼の出土は14~15世紀まで下がるという。そのため現在のところ、天目の出土から、12世紀の博多で抹茶を飲んでいた可能性が高い、という表現にとどまることになる(桐山秀穂「中世前期の茶臼」『中世日本の茶と文化——生産・流通・消費をとおして——』勉誠出版、2020年)。

しかも日本の12世紀における天目の出土は、ほぼ博多津に限られ、ほかには京都での事例をみる程度である。日本各地での出土は、13世紀以降となるという。これは、12世紀の博多は大宰府の管理下にあり、宋風文化はここに封じ込まれていたが、12世半ばから大宰府に進出していた平氏政権が倒れたことにより国家的な規制が消滅し、13世紀の鎌倉時代以降全国規模で拡散したことを背景としている。この時期に活躍したのが、宋から帰国した栄西ということになろう。

日本への伝来のルート

ではあらためて栄西以前に、この貿易商ルートとともに、入宋僧ルートで宋風喫茶文化が伝来する可能性についてみておこう。

まず北宋に留学した成尋である。その著書である『参天台五臺山記』をみると、点茶法の茶を飲んでいる。しかし成尋は密航僧であり、帰国できなかったので、宋風喫茶文化を持ち帰ることはできなかった。いっぽう成尋の弟子たちは、密航のお咎め覚悟で帰国したが、罪に問われることはなかった。しかし彼らが何か喫茶文化の伝来に寄与したとする記録はない。

その後も密航僧がいたが、結局は帰国しなかった。さらに1080年から1167年の重源入宋までの約80年間には、入宋僧が現れなかったのである。その入宋を再開させた重源であるが、宋風喫茶文化に関する記録がみえない。そして重源に続き入宋したのが、栄西であった(榎本渉『僧侶と海商たちの東シナ海』講談社、2010年)。

つまり宋風喫茶文化は、12世紀の博多津に伝来していた可能性があるが、全国に広まるのは13世紀の鎌倉時代以降であった。そして次回述べるように、12世紀の終わりに帰国した栄西は、飲茶法だけではなく製茶法も含めて、宋風喫茶文化を本格的に伝来した人物のひとりとなるのである。

「土之物」と「茶碗」

なお「天目」については、これまでは近世以降の分類に基づき、「天目茶碗」と称してきた。しかしこれは、すでに茶道史で修正されており、その点を谷端昭夫氏からご教示いただいている。すなわち、中世において「茶碗」は磁器を指しており、陶器である「天目」はこれに該当しないため、近年は「天目」あるいは「天目碗」と称するようになっている。

その典拠となるのは、戦国期成立の『君台観左右帳記』である。一番古い写本と見られる「東北大学狩野本」をみると、陶磁器を「茶垸(ちゃわん)物之事」=磁器と「土之物」=陶器とに分け、前者が青磁・白磁・鐃州(にょうしゅう、景徳鎮とみられる)・琯瑤など、後者は曜変・油滴・建盞(けんさん)・烏盞(うさん)・鼈盞(べっさん)・能皮盞(たいひさん)・天目がみられる。天目には、灰被(はいかつぎ)などが含まれる。

まず『君台観左右帳記』は中世後期の成立であるが、この「茶碗=磁器」は、中世前期の史料でも齟齬なく適用することができる。そのため、史料にみえる「茶碗の花瓶」とは、「磁器の花瓶」の意味になる。

また『君台観左右帳記』で天目は、「土之物」の最下位で、「上には御用なき物にて候。代に及ばず候也」とある。つまり足利将軍家には必要のないもので、代金をつけるまでもないものであるとされているのである。この灰被をはじめとする天目は、その後の「茶の湯」や「茶道」の世界では重要視されている茶道具であるが、足利将軍家ではこのような低評価を受けていたのである。いっぽう室町期の寺院社会や地方の武家社会では、史料や出土遺物から、輸入・国産の天目が多数使用されていたことが明らかになっている。

今回の八木書店の本
『君台観左右帳記』(群書類従本)(『群書類従 第19輯 管弦部・蹴鞠部・鷹部・遊戯部・飲食部』〔オンデマンド版]2013年


橋本素子(はしもともとこ)
1965年岩手県生まれ。神奈川県出身
奈良女子大学大学院文学研究科修了
元(公社)京都府茶業会議所学識経験理事
現在、京都芸術大学非常勤講師

〔主要著書・論文〕
『中世の喫茶文化―儀礼の茶から「茶の湯」へ―』(吉川弘文館、2018年)
『日本茶の歴史』(淡交社、2016年)
『講座日本茶の湯全史 第一巻中世』(茶の湯文化学会編、思文閣出版、共著、2013年)
「宇治茶の伝説と史実」(第18回櫻井徳太郎賞受賞論文・作文集『歴史民俗研究』、板橋区教育委員会、2020年)
「中世後期「御成」における喫茶文化の受容について」(『茶の湯文化学』26、2016年)