柳澤吉保を知る 第12回: 吉保の側室達―(三)4人の側室とその子女達(付)養女達―(宮川葉子)(その3)
(承前)
第2部:養女達
吉保の養女を「門葉譜」に随い年齢順に並べると、土佐子、永子、悦子、幾子となる。
(一)土佐子
土佐子は折井正利女。黒田丹治直重室。宝暦8年(1758)11月25日卒。享年79歳。
武蔵国高麗郡加治郷(現在の飯能)武陽山能仁時に葬られた。
彼女は、吉保亡き後の柳澤家を伝える貴重な著作「石原記」「言の葉草」を残しており、コラムで六義園を語る際、登場することになるので、ここでは省略する。
(二)永子
永子(栄子・市子とも)は折井正辰(まさとき)女。松平右京大夫輝貞室。
寛延4年(1751)2月15日卒。
土佐子と永子は次の系譜に繋がる。
永子と輝貞は、吉保側室上月氏柳子腹の綾子を養女にし、松平豊後守藤原資訓に嫁がせたのは、既に述べた(当該コラム(五)柳子腹の綾子)。
永子は土佐子のような記録を残してはおらず、語ることは少ない。
(三)悦子
元禄12年(1699)9月22日、吉保は「曾雌庄右衛門定秋が娘悦」を養女とした(『楽只堂年録』第2、262頁)。
略系譜は以下である。
悦子は曾雌庄右衛門定秋女。
定秋は、吉保室定子の兄弟であるから、悦子は定子の姪になる。
内藤政森室になったが、宝永2年11月8日、疱瘡で卒。
残された政森が、吉保側室横山繁子腹の春子(稲子)と再婚したのは記述した通りである(当該コラム(二)繁子腹の稲子)。
(四)ゑん(縁)
実は吉保にはもう1人養女がいた。
既に永子の略系譜の中に存在を示しておいたが、幾子の前に是非語っておきたい。
柳澤家の系譜類に載らない、しかし『楽只堂年録』には時折登場する―それが「ゑん」だからである。
元禄8年(1695)2月2日の『楽只堂年録』に、
今日仰せに随ひて、吉保が養女ゑんと父子の義をたちて、実父折井市左衛門正辰かもとへ返す(第1、231頁)
とある。
綱吉の命で、吉保がゑんとの養女縁組を解消、彼女を実家に返したというのである。
ゑんの実父は折井正辰。彼は永子の父でもある(本稿(二)永子の項掲載略系譜)。
ということは「ゑん」は永子の姉妹。
元禄4年2月23日の『楽只堂年録』に遡ると、
吉保が養女、名をゑんといふ、山名信濃守泰豊に嫁すべきのよし御内意を蒙る、
とあり、同月29日には結納が届けられた(第1、61頁)。
ところがこの泰豊、前年4月17日、勘気を蒙ったため吉保が預かり、その領地上総国矢貫に籠居させた曰く因縁つきの人物なのである(『楽只堂年録』第1、44頁)。
勘気は短期で解かれたとはいえ、訳あり男との婚姻を綱吉が推挙した理由は不明。
泰豊は寛文6年(1666)生まれ。
綱吉の神田館に仕官、延宝8年(1680)徳松(綱吉男子、生母瑞春院)に従い西城に伺候。
天和元年(1681)年、廩米300俵を賜い、同姓矩豊養子となる。
養父矩豊は、山名持豊(宗全)から数え8代目。綱吉に寵されていた。
ゑんとの婚姻もそのあたりが関係していたのかもしれない。
元禄7年(1694)2月4日、綱吉御成の翌日のこと。
今日山名信濃守泰豊に御咎の事有て、役儀知行召上られて、父伊豆守矩豊に預けたまふ、吉保が養女縁(ゑん)も仰を蒙りて、泰豊と婚姻の縁を絶つ、
という穏やかならざる記事が載る(『楽只堂年録』第1、175頁)。
前日の御成時には、泰豊もゑんも綱吉との間で、献上物・下賜品の贈答をいつも通りおこなっていたのが、いきなりの御咎。
綱吉自らが推した婚姻の解消、相当な「御咎」なのであろうが、『新訂寛政重修諸家譜』などにも特段の理由を見いだし得ない。
そして冒頭に引いた吉保との養女縁組解消に至るのである。
かくしてゑんは、柳澤家系譜からも抹消されてしまう。
ゑんを実父に返した吉保の心中も察して余り有る。
泰豊の放免は10年以上に及ぶ他出禁止と重かったが、宝永元年(1704)9月、再度召し出され小姓となり、500石の采地を賜る。
宝永6年(1709)正月の綱吉薨去により、事態は好転、2月には寄合に列す。
その後は大過なく、享保7年(1722)に57歳で没したのが『新訂寛政重修諸家譜』に確認できる。
しかし、離縁後のゑんは辿れない。
(五)幾子
見てきたように、吉保の養女縁組みは、一族の折井氏・曾雌氏との間でなされて来たが、幾子は異色。彼女は公家の息女であった。
幾子の実父は野宮定基。
定基は中院通茂息ながら、養子に入り野宮を名乗った。
兄の中院通躬と姓を分かつのはそのためである(下記略系譜参照)。
宝永3年(1706)正月は吉保49歳、吉里20歳。
その29日、大典侍(清閑寺熈房女、綱吉側室)の姪幾子を養女にするよう仰せがあった。
幾子は大典侍の妹が野宮定基に嫁し、生んだ女子であった。
当時幾子は既に大典侍のもとにあった。
養女になることが内定しており、前もって江戸に下っていたようである。
幾子は明和8年(1771)11月23日、85歳で卒するから(「門葉譜」197頁)、貞享4年(1687)生まれ。
当時既に20歳。吉里と同い年であった。
同年2月3日、幾子は大典侍のもとから、吉保邸に引き取られる。
そして同月21日、大久保忠英との婚約成立。その間の略系図が下記である。
翌宝永4年(1707)4月26日、幾子は柳澤邸から忠英のもとへ輿入れした。
嘗て吉保は正親町公通息女を側室に入れた。
この度、幾子を養女にしたことで、公家との紐帯はさらに強まった。
そしてこの度も、系譜の始発は三条西実隆なのである。
霊元院歌壇が尊崇した実隆。
院の和歌添削を得た吉保・吉里は実隆に傾倒、実隆の学統に繋がることを熱望していた。
従って町子を側室にした時、彼女が実隆の子孫であるのを吉保は高く評価し喜んだ。
そしてこの度は、実隆子孫が養女になった。
かくして柳澤家は、実隆を継承する武家歌人の家として、和歌文化を守り育てて行くのである。
それを顕在化したのが六義園であるのは、次回からのコラムで語りたい。
〔補遺〕
町子の父権大納言従一位正親町公通は、享保18年(1733)7月12日(墓石には11日とある)薨去。
真如堂に葬られたことは、『公卿諸家系譜』(続群書類従刊成会)に知られる。
その写真を掲載する。
藪に覆われた現場は足場が悪く、撮影は困難を極めたが、陰刻は読み取れよう。
【著者】
宮川葉子(みやかわようこ)
元淑徳大学教授
青山学院大学大学院博士課程単位取得
青山学院大学博士(文学)
〔主な著作〕
『楽只堂年録』1~9(2011年~、八木書店)(史料纂集古記録編、全10冊予定)、『三条西実隆と古典学』(1995年、風間書房)(第3回関根賞受賞)、『源氏物語の文化史的研究』(1997年、風間書房)、『三条西実隆と古典学(改訂新版)』(1999年、風間書房)、『柳沢家の古典学(上)―『松陰日記』―』(2007年、新典社)、『源氏物語受容の諸相』(2011年、青簡舎)、『柳澤家の古典学(下)―文芸の諸相と環境―』(2012年、青簡舎)他。