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柳澤吉保を知る

柳澤吉保を知る 第12回: 吉保の側室達―(三)4人の側室とその子女達(付)養女達―(宮川葉子)(その2)

(承前)

(七)柳子腹の保経

宝永7年6月22日、上月柳子は男児を生んだ(「福寿堂年録」。『新訂寛政重修諸家譜』〈第3、262頁〉は宝永3年誕生とする)。

七夜の6月27日、吉保は頼母(よりも)と命名した。

吉保は前年6月18日に六義園に隠遁しているから、頼母は六義園での誕生である。

正徳元年(1711)9月朔日、頼母は髪置(かみおき。小児が髪を伸ばし始める時の儀式)の祝儀をなし、順調な成長であった。

15歳の享保9年(1724)7月、時睦の養子となり、同26日襲封。

ここの時睦は町子腹の男児、吉保5男。当年29歳(元禄9年〈1696〉生)。

末弟が直上の兄の養子となり、封を継いだというのである。

因みに時睦は、同母兄経隆ともども、宝永6年6月、父吉保の引退に伴い、甲斐国山梨・八代二郡内での新墾田一万石分与を認められていた。

しかし享保9年3月、吉里は大和郡山へ移封。

郡山に分与できる新田はなく、あらたに越後国蒲原郡内に一万石の地を賜い、三日市に居所を営むことになった。

時睦はそのあたりで見切りを付けたか。

弟保経を養子にし、享保9年7月26日に致仕してしまう。

既に15歳の保経。元服は済んでいたかと推すが、関連事項は史料不足で探れない。

ただ養子になり、襲封して一人前と認められたらしく、同年8月9日、初めて8代吉宗に拝謁、12月18日には、従五位下に叙され、弾正少弼に任じられている。

享保12年(1727)正月28日、領地(越後三日市〈現新発田市〉)の御朱印を賜る。

元文元年(1736)閏11月朔日。

保経嫡男信著(のぶあき)以降は、柳澤を称すべき仰せが吉宗より下される。

元禄14年(1701)11月26日、綱吉御成の際、吉保・吉里に諱の一字「吉」と、松平の称号を与え、経隆・時睦も松平の名乗りが許された。

時睦の系統では、時睦・保経2人のみ称した松平であったことになる。

将軍の一族から一歩遠ざかったのでもあった。

宝暦10年(1760)6月6日卒。55歳。法名乾峰院殿一路霊叟大居士。月桂寺に送られた。

 

(八)柳子腹の美喜子

正徳元年(1711)10月5日、六義園に女児誕生。生母は上月柳子。

11日、七夜に吉保は美喜と命名。吉保の末子にあたる。

同2年2月朔日、美喜箸揃の賀宴。

同3年4月2日、3歳で早世。深川浄心寺へ葬送。

「万歳集」の吉保の項の美喜子は、「吉里公御養女」とある(258頁)。

吉里の項には、それを証するように「美喜子様 御年三歳 御生母上月柳子女」(259頁)とある。

ただ、美喜子が吉里養女になった記録を見ない。

 

(九)片山梅子

宝永5年(1708)2月朔日、「家の女房片山氏、男子を産む」(『楽只堂年録』第8、163頁)とあり、七夜に大膳と名付けられた(同上、175頁)。

町子腹の時睦(元禄9年6月生)以来、13年ぶりの男児であった。

生母は「門葉譜」「万歳集」に片山梅子とあるが、彼女の出自の手掛かりはない。

梅子には3人の男兄弟、三左衛門・孫兵衛・権蔵があった(「門葉譜」198頁)。

うち孫兵衛の尻付には「養子実上月源左衛門二男」とある。

上月源左衛門は、柳子の兄弟三平の息。即ち柳子の甥にあたる。

このあたりを略系譜で示すと次である(「門葉譜」197・198頁)。

大膳誕生の日時(宝永5年2月1日)に推し、梅子は宝永4年前半には吉保側室となっていたはずである。

一方、上月柳子が綾子を出産したのが宝永4年11月。

大膳誕生に近接しており、梅子と柳子は相前後して側室となった状況が想定できる。

しかも上記略系譜に見たように梅子は柳子の甥の娘。

そこに、吉保が柳子を「もらい受けた」際、柳子が身の回りで使うつもりで連れてきたのが梅子で、大膳を孕む結果となった――という構図は考えられまいか。

宝永4年(1707)の吉保は50歳。

一度嫁していた柳子は20歳を越えていた可能性は高いが、梅子は14、5歳ほどであったかもしれない。

まだ幼さの残る梅子を妹のようにかわいがり、行動を共にしていた柳子が浮かぶ。

しかし結果として2人の間には吉保を廻る確執が生まれていたのかもしれない。

宝永7年(1710)6月22日、上月柳子は男児保経を生んだ(既述)。

それを待つように同年閏8月、梅子腹の大膳3歳は米倉昌照養子となるのである(次項)。

梅子に大膳以外の子はない。

一粒種を取りあげられた形の梅子。

柳澤家での立場の希薄さも見え隠れする。

「門葉譜」には、「後因願 嫁勝屋庄右衛門」とある。

「因願」は梅子の意思。

彼女は自ら暇乞いをし、再婚へと新たに道を拓いていったのであろう。

その後の梅子は辿れない。

 

(一○)梅子腹の大膳

宝永5年(1708)2月1日、梅子腹に男児誕生。大膳(保教、保武)である。

同年8月26日には、大膳の居所経営が成就し移徙している。

吉保は男児には早々に独立した居所を与え、独り立ちの環境を整えており、ここもそれであったと思しい。

ところが宝永7年(1710)閏8月18日(『新訂寛政重修諸家譜』は7月18日〈第3、289頁〉)、米倉昌照(まさてる)との養子縁組みが調い、9月27日に昌照邸に移徙。3歳であった。

昌照は吉保従兄弟米倉一閑(政継)曽孫。

吉保は一閑の94歳を祝う和歌と偈、一閑は吉保五十賀を祝う頌と和歌をそれぞれ贈り合うなど交流が見られる(宝永4年〈1707〉6月8日〈『楽只堂年録』第7、173頁〉)。

それにしても時睦(町子腹)以来の久々の男児大膳。

子孫繁栄の基を養子に出すのは何故か。

そこには柳澤家の代替わりが関わっていた。

家督を譲った吉保は前時代の人間。

以後柳澤家の繁栄は吉里にかかっているのである。

当時吉里は甲斐国に赴任して1年目。

御城坊主佐藤宗巴女三保子(「門葉譜」)は既に懐妊。

嬰児の性別は不明ながら、次世代に移りつつあった(吉里室酒井氏頼子腹保子は宝永3年早世)。

総じてこの頃から吉保は、今後我が子が誕生した場合、養子に出すと決めたようである。

さて大膳は、正徳2年(1712)7月19日、7歳で遺領を継いだ。

同年5月22日、養父昌照(大坂城副守衛)が大坂で逝去したからである。

家督相続を前に、同年6月朔日、吉保は大膳を保武と改名させた。

享保5年(1720)12月、保武は叙従五位下任丹後守。

同7年、下野国都賀郡皆川の居所を、武蔵国久良岐郡金沢に移される。

享保18年(1733)、継嗣里矩(さとのり)誕生。

虚弱を理由に、親族にも披露せず内密で育てる。

享保20年(1735)閏3月、保武は病が重篤となる。

遺領を継がせるべく申請の際、年齢齟齬から里矩の内密養育が発覚。

糾明されるべきを、重篤を理由に許され(このあたり吉保の経歴が功を奏したか)、保武自ら出仕遠慮する中、4月8日卒。30歳(以上、多く『新訂寛政重修諸家譜』に依る。総じて吉保晩年にかかる子女の系譜類は記事が過少のため)。

武州豊嶋郡渋谷郷の白華林長谷寺(米倉家菩提寺)に葬送された。

 

(一一)祝園閃子(勢世子)

正徳元年(1711)、7月22日、祝園氏閃子(いひそのとらこ)が六義園で女児出産。

28日の七夜に、増と命名された。

10月5日には、上月柳子が美喜子を生むから、その直前である。

因みに「祝園」は、「清和源氏武田流甲斐国主系図」(令和3年度柳沢文庫後期企画展「藪田重守―柳澤藩草創期を支えた家老―」展示記録)により「イヒソノ」と訓んでおく。

「閃子」は「門葉譜」のルビに従ったが、上記「甲斐国主系図」には「勢世子」とある。

閃子の出自・系譜は明確ではないが、僅かな手掛かりは、「門葉譜」に「吉保公御逝去後嫁上月平左衛門 親元依農家無跡」(199頁)とある記事である。

「親元依農家」は、農家の生まれ育ちであったのを語るが、「無跡」とあるように、以後を辿れない。

ただ「吉保公御逝去後嫁上月平左衛門」から、吉保逝去後(正徳4年11月以降)に再嫁したとわかる。

上月平左衛門とは、当該コラム(九)片山梅子の項の略系譜冒頭に載せた人物、即ち柳子の兄である。

宝永7年には吉保側室となっていたであろう閃子。

時に16、7歳として、吉保逝去の正徳4年にはまだ20歳を過ぎたばかり。

一粒種増子は藪田邸に引き取られてしまっている(次項)。

あるいは柳子がその将来を慮り、自らの兄へ繋いだか。

というより、閃子は梅子同様柳子の関係者で、行儀見習いの形で吉保のもとへ上がり、増子を生み、増子を手放し、吉保に死去され、柳子が兄に託したといったところか。

梅子と異なるのは、吉保逝去後の再稼であった点であろう。

 

(一二)閃子(勢世子)腹の増子

正徳元年(1711)7月22日、閃子の生んだ女子が増子である。

増子5歳の正徳3年(1713)6月、藪田重守嫡男里守(14歳)と婚約が調う。

その折が『源公実録』(藪田重守著。『柳沢史料集成第1』182頁。)に次のようにある。

正徳三癸巳年六月十九日、於駒込御館、両殿様御前江被召出、段々重キ御諚共ニ而、来年中、お増様御事(珠林院殿御事)、私方江御引取可申之旨、被仰出、御公辺江ハ、市正養女と被仰達可然由(括弧内割り注)、

六義園に呼び出された藪田重守は、増子を重守の養女とすべく仰せを受ける。

既に隠退してはいても、この件は吉保が主導者であったと思われる。

いきなり里守の許嫁ではなく、まずは重守の養女扱いにというのは、5歳という増子の年齢を慮ってのことであろう。

藪田重守は吉保の6歳年少であった。

元禄元年(1688)25歳で吉保に仕官。34歳で家老に昇格。

吉保・吉里がもっとも信頼した家臣で、吉里の参勤交代には常に側にあった(詳細は、前掲「藪田重守―柳澤藩草創期を支えた家老―」参照)。

当時甲府城の隣接地に屋敷を構えていた重守。

同年12月、増子の居館増設のため、北隣の土地を拝領している。

翌正徳4年(1714)4月26日、重守・里守は、増子を重守の甲府屋敷に迎えた。

見事なお国入りの様が藪田家旧蔵文書(柳沢文庫蔵)に残る。

さすが当主吉里の妹姫だけのことはあった。

うち「進物覚書」には、「少人形 四ツ・いぬ 二ツ・ねこ 一ツ」などと見える。

玩具で遊ぶに相応しい6歳の少女が、父母に別れ、甲斐国行きの駕籠に乗り込む様が痛々しい。

そして同年11月、吉保は江戸に逝去した。あれが見納めであったのだ。

ほどなく生母閃子(勢世子)も再稼。

享保9年(1724)4月、吉里転封により、藪田家も増子を同道し大和郡山へ。

翌10年(1725)2月、重守は隠居、里守が家督を相続した(2500石)。

同年12月、増子と里守は婚姻(以上、『源公実録』・「藪田重守―柳澤藩草創期を支えた家老―」〈前掲〉)。増子17歳。吉保のもとを離れ10年以上が経過していた。

里守との婚姻は僅かであった。

享保15年(1730)4月4日(「藪田重守略年表」〈展示記録収載〉は7月)、増子は22歳で逝去してしまう。

法名珠林院殿貞節慈蔭大夫人。

郡山近郊の矢田邑発志院(はっしいん)に葬られた。

因みに発志院は、吉里転封に従った柳澤家家臣団の多くの菩提寺となっている。(その3へ続く)

 


【著者】
宮川葉子(みやかわようこ)
元淑徳大学教授
青山学院大学大学院博士課程単位取得
青山学院大学博士(文学)

〔主な著作〕
『楽只堂年録』1~9(2011年~、八木書店)(史料纂集古記録編、全10冊予定)、『三条西実隆と古典学』(1995年、風間書房)(第3回関根賞受賞)、『源氏物語の文化史的研究』(1997年、風間書房)、『三条西実隆と古典学(改訂新版)』(1999年、風間書房)、『柳沢家の古典学(上)―『松陰日記』―』(2007年、新典社)、『源氏物語受容の諸相』(2011年、青簡舎)、『柳澤家の古典学(下)―文芸の諸相と環境―』(2012年、青簡舎)他。