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柳澤吉保を知る

柳澤吉保を知る 第12回: 吉保の側室達―(三)4人の側室とその子女達(付)養女達―(宮川葉子)(その1)

第1部:4側室と子女達

(一)横山繁子

『楽只堂年録』元禄8年(1695)正月29日の条に(第1、231頁)、「巳の刻に、家の女房横山氏平産、女子を生り」とある。

続いて2月5日には、「出生の娘、今日七夜なり、一家の祝有、吉保名をつけて春といふ」(同上)と録される。

ここの「家の女房横山氏」が横山繁子。「万歳集」(歴代家族を生誕順に列記の過去帳)〈柳沢史料集成第4巻〉によれば、横山清兵衛女(256頁)であった。

但し「門葉譜」(当主ごとの点鬼簿で、嫡男以外の子女も掲載し生母の出自・略系を示す)〈同上〉には、横山清兵衛女の記述はなく、繁子は小川祐言女で、横山家養女となった系譜を載せ、尻付には「吉保公妾/音羽子/又繁子」(/は改行、以下同じ)とする(196頁)。

小川祐言には真庵を名乗る男子(僧籍者か)の他に4女子があった。真庵は養子となり(養家不明)、繁子は横山家養女となり、残る3女子は各々嫁した。

横山家は、繁子弟四郎左衛門が継いだらしく、その後もかろうじて養子でつなぎ、4代ほど辿れるが、特記すべき人物は見えない。

さて誕生した「春」以前に、繁子腹の子女は見えないから、繁子は元禄7年(1694)春先には吉保側室となったと推測される。

元禄7年春先とは、側室になって程ないと思しき正親町町子が、初子安通(経隆、同年11月16日誕生)を宿していた頃であった。もっと言うなら、町子と繁子はほぼ同時期に側室になったかと思われるのである。

正親町公通を父に、大奥総取締右衛門佐を母に生まれた町子当時の年齢は16歳ほど(『松陰日記』に元禄6年に「十六ばかり」とあるのが基準)。

側室にした公家の姫が懐妊したと思しき時期に、重ねるように繁子を側室にするのは如何かという見方もあろう。

しかしそれは現代の一般庶民の一夫一婦制の話。

断家の憂き目を避け、一家を繁栄させるには、「腹は借り物」よろしく、多くの子を生ませることにかかっていた時代なのであった。

繁子が側室になった元禄7年春先頃、吉保の子女は、飯塚染子腹の吉里(貞享4年〈1687〉9月3日生)・安基(元禄5年5月生)・幸子(元禄6年10月21日生)の3人のみ。

しかも元禄7年3月には安基が3歳で早世。同年閏5月には、度々の疾病を案じた吉保、幸子を誓伝(染子妹の善光寺尼上人)の弟子にし、易仙(いせん)と改名させざるを得ない心細さであった。

町子と繁子を側室に入れたお蔭で、元禄7年11月には町子に安通誕生。翌元禄8年2月、繁子に春子誕生と続くのである。吉保は一息つけた。

ところが同年2月14日、改名も叔母への委託も功を奏さず幸子早世。

染子腹は吉里一人になってしまう。元禄8年時、吉保は38歳。繁子は未詳。但し、出産を期待されての繁子、高年齢ではなかったはずで、町子とほぼ同年の16、7歳であったか。

正徳4年(1714)9月5日、繁子逝去。享年は37、8歳か。深川浄心寺に葬送された。因みに同年11月2日、吉保57歳は六義園に逝去。繁子逝去の2箇月後であった。

 

(二)繁子腹の稲子

元禄9年(1696)4月朔日、春は稲と改名(『楽只堂年録』に「娘はる、名を改めていねといふ」とある〈第2、14頁〉)。以下稲子と呼ぶ。

元禄11年(1698)2月9日、吉保邸へ御成の綱吉は、「吉保がむすめいねを、土屋采女定直へ嫁すべき」を仰せ付けた(同上第2、148頁)。稲子4歳、定直10歳。

土屋定直(幕府重鎮の土屋政直次男)は15歳で叙従五位下任出羽守。出自の良さを誇ったが、宝永2年(1705)閏4月、17歳で父に先立つ。11歳の稲子は許嫁を喪ったのである。

稲子と定直は正式な婚姻に及んではいない。にも拘らず『楽只堂年録』は、稲子を定直妻と記述するのである。

後述するが、宝永2年11月8日、前月末から疱瘡を患っていた吉保養女悦子(曾雌庄右衛門女)が逝去。彼女は内藤政森室であった。

宝永3年2月6日、綱吉の御成。その席上、綱吉は稲子と内藤政森の婚姻を仰せ付ける(『楽只堂年録』第6、172頁、「土屋出羽守定直か妻いねを、内藤山城守政森に嫁すへきとの事を仰せ出さる」とある。「定直か妻いね」と呼んでいる)。

かくして許婚土屋定直を喪った稲子は、義姉悦子の夫の後妻に納まることになったわけである。稲子12歳。

稲子の結婚への道筋は緩やかに進む。彼女がまだ幼かったためであろう。宝永3年12月朔日、内藤政森から稲子に結納到来。宝永4年11月26日には初歯黒。入輿は宝永7年(1710)4月2日であった。

享保7年(1722)12月12日、稲子は28歳で逝去。享年に推し、然程健康体ではなかったか。懐妊・出産の記事はない。

深川浄心寺(吉保生母佐瀬氏の菩提所であることは既に述べた)〈コラム第1回・(2)生母〉に葬られた。浄心寺には正徳4年9月に逝去した生母繁子も眠っていた。

 

(三)繁子腹の佐奈子

稲子誕生の翌年、即ち元禄9年(1696)6月12日に、町子が信豊(時睦)を生んだ。

それ以後、宝永2年(1705)5月29日、「今朝六つ時過に、家の女房横山氏、女子を生む」(『楽只堂年録』第6、49頁)とあるまで、吉保に子供誕生の記事はない。

繁子腹の女子は、七夜(6月5日)に、定子が「さな」と命名。「万歳集」は真子、「門葉譜」は佐奈子を宛てる。

さなは吉保48歳にとって、まる10年ぶりの新生児であった。さな誕生までの空白の10年間は、吉保が側室を懐妊させる暇を持てないほど多忙であったのを語るか。深入りはしないでおく。

そのさなも、宝永5年(1708)5月晦日、4歳で早世(『楽只堂年録』第8、203頁)。姉の稲子同様、深川浄心寺へ送られた。

 

(四)上月柳子

宝永4年(1707)10月4日、大地震が起きた。

『楽只堂年録』には、「今日八つ時、地震強し」とある(第8、14頁)。

大老格吉保のもとには、全ての被害状況が刻々集まる。それらは『楽只堂年録』第209・210巻両巻(第8、22~111頁)を割き記録された。

第209巻は、伊豆・三河・伊勢・駿河・遠江・志摩・鳥羽・大坂・甲斐、210巻は、江州・泉州・和州・摂州筋を録するが、広範な被害と甚大さに唖然とさせられる。

近年日本は続けて、阪神淡路大震災・東日本大震災に遭った。

『楽只堂年録』の当該記録は、気象庁を始めとする関係機関で貴重な史料として活用されているらしい。

当時妻定子は所労で寝付き、9月28日には家千代(家宣息。7月10日、右近之方を母に西の丸に誕生)が生後僅か3箇月足らずで逝去。吉保は公私で気苦労が絶えない中での大地震であった。ようやく一息つけた12月3日、上月柳子が女子を生んだ(『楽只堂年録』第8、126頁)。

9日の七夜、快復した定子が綾と命名。

上月柳子は「門葉譜」に、「嫁医者。吉保公、御貰被成妾ト成」(197頁)とあり、某医者に嫁していたのを、吉保が貰い受けたというが、詳細は不明。親の記述もなく、出自未詳。

とはいえ、元禄7年(1694)春先の横山繁子以来、12、3年ぶりの新側室である。柳子は綾を含め、4人の子をなしており、「貰い受けた」吉保の思い入れの成果であったか。

柳子は享保15年(1730)12月9日卒。清光院と号した(「門葉譜」)。

 

(五)柳子腹の綾子

宝永4年(1707)12月3日に誕生した綾子は、同月21日、松平輝貞の養女となった。

『楽只堂年録』には(第8、138頁)、「綾を右京大夫輝貞か養娘にすへきとの仰事あるによりて、やかて輝貞か亭へつかハす」とある。

松平輝貞は、吉保養女永子(栄子、市子とも。武川衆折井正辰女)を室としたが、子がなかった。時に輝貞は側用人。吉保の片腕として公務に忠実な能吏で、綱吉の寵愛も厚かった。養女縁組みは、「仰事」が綱吉命であるのを語る。

綾子は後に松平資訓(すけのり)に嫁した。資訓は、系図上本庄氏(藤原姓、松平を称す)宗資(むねすけ)の孫で、宗資―資俊(すけとし)―資訓と繋がる。但し、資訓の実父は佐野勝由。資俊の養子となって本庄を継いだのである。

因みに宗資は、綱吉生母桂昌院の弟。姉と甥綱吉の庇護のもと、それなりの出世を遂げた人物である。

 

(六)柳子腹の国子

宝永6年(1709)は、柳澤家暗転の年であった。1月10日、綱吉が64歳の生涯を閉じたからである。

その精進明けが過ぎた3月15日、「家の女房上月氏、女子を産む」(『楽只堂年録』第9、35頁)とあり、同月23日には、「出生の娘の七夜をいわふ、妻、名をつけて国といふ」(同上、36頁)と続く。

さらに同年5月12日の『楽只堂年録』は、「国、今日産地の神、神田明神へ参詣す」で始まる6行ほどの記事を載せる。

そこには神楽料を弾み、社人・名主へ供与し、果ては茶屋にまで二貫文包んだ吉保がいる。

同年6月18日をもって、六義園に妻妾ともども隠退と決めていた52歳の吉保。

菩提寺での法事も、代参で済ませることが多かった吉保。公務から解放され、思う存分幼子へのいとおしみを楽しんでいるようにさえ見える。

宝永7年(1710)11月26日、国は喜久と改名した。

厄除けを意図していたのであろうが、その甲斐もなく、同年12月9日、2歳で逝去。法名雪庭院寒光了徹大童子。

「雪庭・寒光」から、師走の寒さの中、一人旅だった幼児の孤独さ、懐からぬくもりが抜け出して行った吉保のむなしさが伝わって来る。

そして国子は柳澤家の江戸の菩提寺月桂寺に葬送された。(その2へ続く)

 


【著者】
宮川葉子(みやかわようこ)
元淑徳大学教授
青山学院大学大学院博士課程単位取得
青山学院大学博士(文学)

〔主な著作〕
『楽只堂年録』1~9(2011年~、八木書店)(史料纂集古記録編、全10冊予定)、『三条西実隆と古典学』(1995年、風間書房)(第3回関根賞受賞)、『源氏物語の文化史的研究』(1997年、風間書房)、『三条西実隆と古典学(改訂新版)』(1999年、風間書房)、『柳沢家の古典学(上)―『松陰日記』―』(2007年、新典社)、『源氏物語受容の諸相』(2011年、青簡舎)、『柳澤家の古典学(下)―文芸の諸相と環境―』(2012年、青簡舎)他。