• twitter
  • facebook
『新皇居行幸年表』編集余滴

江戸時代の朝覲行幸―『新皇居行幸年表』編集余滴1(詫間直樹)

この度刊行した『新皇居行幸年表』では、書名の通り皇居の変遷に加え行幸の事例についても確認できる限り採録しているが、全時代を通覧することで新たな課題が見つかることもある。ここでは、これまで十分に知られていない江戸時代の朝覲(ちようきん)行幸について述べることとしたい。朝覲行幸とは、天皇が太上天皇(上皇)や皇太后などの御所に行幸して挨拶を行い、父母などに孝敬を尽くす儀である。わが国では平安時代前期から始まり、その種類は、年頭に行うもの、新天皇の即位後や元服後に行うもの、父母等の不予に際して臨時に行うものなどがある。

従来、江戸時代の天皇・朝廷は幕府の強い統制下にあって各種の行動が制限され、天皇の行幸に関しても同様と考えられてきた。これは幕府が天皇権威の拡散を防ぐために対処したと見るものである。しかし近年は、江戸時代に行幸が制限されたのは、主に幕府の財政上の問題によるものであり、また幕府の皇位管理政策によるもの(行幸が剣璽等の渡御を伴うため)であったとする見解が出されている。ここでは、江戸時代に実施された計5回の朝覲行幸、および予定されながらも実行できずに終わった朝覲行幸計画について改めて紹介したい。

江戸時代の朝覲行幸例

江戸時代に実施された朝覲行幸の確実な事例としては、父母等不予に際する場合を除くと、以下の4例(①~④)が指摘されている。

① 後水尾天皇(29歳)、寛永元年(1624)3月25日に母中和門院(ちゆうかもんいん)(近衛前子)御所に行幸(27日還幸)[本書502頁]

後水尾天皇が女御徳川和子と共に、内裏の北方に位置する母女院の御所に行幸した。柳原紀光の『続史愚抄』ではこれを「朝覲行幸」と記しているが、方違(かたたがえ)行幸の形で行われたらしい。後水尾天皇は父後陽成上皇との関係が悪かったことから、上皇に対する朝覲行幸は行われず、上皇崩御(元和3年〈1617〉)の後、この度の母女院への行幸となった。ちなみに、後水尾天皇が将軍家光を訪問した有名な二条城行幸は、この2年後(寛永3年)に挙行された[本書503頁]。

 

② 明正天皇(13歳)、寛永12年(1635)9月16日に父後水尾上皇の仙洞御所に行幸(20日還幸)[本書505頁]

明正天皇はこの日、即位後初めて内裏の外に出て、上皇の住まいである仙洞御所に行幸した。これにつき、九条道房の『道房公記』では「朝覲の礼に非ず、ただ臨時行幸の儀なり」とし、近衛信尋の『寛永十二年朝覲行幸仮名記』(本源自性院記)では「つねの御かたゝかへのよし」(常の御方違の由)と記されている。すなわち、この場合も実態は朝覲行幸であったが、形式は臨時行幸もしくは方違行幸として行われた。

なお、このように天皇が上皇に朝覲行幸することは鎌倉時代末期の後醍醐天皇以来とする説もあるが、室町時代に入り応永24年(1417)7月に称光天皇が後小松上皇の仙洞御所(一条東洞院殿)に朝覲行幸を行っている例などがあるので、その頃以来とすべきである[本書417頁]。

 

③ 明正天皇(18歳)、寛永17年(1640)3月12日に父後水尾上皇の仙洞御所に行幸(18日還幸)[本書506頁]

明正天皇による2度目の朝覲行幸である。事前に幕府より極力略儀とするよう申し渡されていたので、今回も方違行幸として行われた。しかし、これも実態は朝覲行幸であった(『忠利宿禰記』)。

 

④ 後光明天皇(19歳)、慶安4年(1651)2月25日に父後水尾上皇の仙洞御所に行幸(29日還幸)[本書511頁]

後光明天皇は、この度の行幸を朝覲行幸の形式にて行いたいと表明した。しかし、後水尾上皇からは、方違行幸に一部朝覲行幸の形式(仙洞御所中門で鳳輦を下りて孝敬を表すなど)を交えて行うよう仰せがあった。実態はやはり朝覲行幸であったが、方違行幸の形式が基本とされたのである。

 

以上の4例にはいくつかの共通点がある。行幸が行われた時期が年始でも即位後でもなく、いずれも臨時であること。天皇は何日間か仙洞御所あるいは女院御所に滞在し、御遊・舞御覧・御能などが催されたこと。内裏から仙洞御所へ向かう経路に桟敷などが設置され、行幸が町人にも開放されていること。そして実質は朝覲行幸であるにもかかわらず方違行幸の形式を採っていることなどである。特に行幸の形式については何故に方違行幸としたのかが問題であるが、中世以降、朝覲行幸は長らく途絶えていて方違行幸のみが存続していたから、また方違行幸の方が行列の規模や調進物などが抑えられ、経費面で縮小を求める幕府の方針に合致していたからであろう。

 

後光明天皇2度目の朝覲行幸

ところで、これまでの研究では取り上げられていないが、江戸時代の朝覲行幸については、以上の4例のほかに、後光明天皇の2度目となる承応3年(1654)の例(⑤)が存する。

⑤ 後光明天皇(22歳)、承応3年(1654)正月2日に父後水尾上皇の仙洞御所に行幸。同日、東福門院(とうふくもんいん)(徳川和子、後水尾天皇の皇后)御所へも行幸 (同日仮内裏に還幸)[本書512頁]

これは、中御門宣順の日記『宣順卿記』同日条に「今日、本院〈女中密々に沙汰す、〉・女院に朝覲行幸す、還御の後、本院・女院、禁裏へ御幸す」とあり、「朝覲行幸」と明記されていることによる。つまり、年始の朝覲行幸が復興したと言える。ただし、この場合は「女中密々に沙汰す」とあるように非公式に行われているので、これが先学に取り上げられなかった理由かもしれない。

このとき後光明天皇は、前年(承応2年)に内裏が焼亡したため、仙洞御所内に造営された仮内裏に居住していた。仮内裏は仙洞御所の南半分を分割して充て、広御所などの既存の殿舎と新造の建物を使用していた(指図は『中井家文書』所収)。そして承応3年正月には仮内裏を理由として三節会は行われなかったが、年頭の上皇・女院への挨拶が行われた。これを中御門宣順(当時正三位、権大納言)は「朝覲行幸」と記したのである。

上皇は天皇と同一区画内に、女院は北に隣接する御所に居住していたことから、朝覲のためのルートは、仙洞御所内の渡廊などが使用されたものと推測される。またそれゆえ、天皇還御後、上皇と女院が仮内裏に直ちに御幸できたのであろう。したがって、今回は、内裏の外に出て仙洞御所まで移動する従来の朝覲行幸とは確かに異なる。しかし、すでに中世以降、方違えなどで内裏内の別殿に移る「別殿行幸」が常態化していたことから、⑤の例を朝覲行幸と解してもよいと考える。

 

その後の朝覲行幸再興計画

ところで、江戸時代中期以降においても朝覲行幸の再興は何度か計画された。主なものを挙げると、まず中御門天皇の時代、享保10年(1725)より朝覲行幸が検討される。この2年後には京都所司代からも賛意を得て計画が進展する。中御門天皇(孫)から霊元上皇(祖父)への朝覲である。しかし、正式決定しないまま年月が過ぎ、享保17年(1732)の霊元上皇の崩御により、遂に実施には至らなかった[本書531頁]。

また、仁孝天皇の時代、天保8年(1837)7月、幕府が朝覲行幸の再興を許可する[本書568頁]。これは仁孝天皇(子)から光格上皇(父)への朝覲である。将軍家斉の太政大臣宣下との関連で文政9年(1826)頃より話が出たが、正式の許可に至るまでには朝幕間で10年以上にわたる交渉がなされた。このように長期の時間を要したのは、朝廷側が朝覲行幸の恒例化を求めたことが一因であった。幕府は恒例化は認めないものの、巨額の必要経費1万両を献上した。しかし、この場合も天保11年(1840)の光格上皇の崩御により、結局実現することはなかったのである。

以上のことから、わが国における朝覲行幸は、少なくとも江戸時代前期、後光明天皇が承応3年正月2日に後水尾上皇と東福門院に対して行った時まで、断続的ながら継続していた。その後も幕府は天皇自身が行う孝道を重視したことから、享保年間や天保年間には朝覲行幸の再興が計画されたが、いずれも実現には至らなかった。したがって、結果的には、承応3年が朝覲行幸の最後の例となった。

江戸時代は確かに行幸の事例が少ないが、幕末の文久3年(1863)に孝明天皇による賀茂社・石清水八幡宮への神社行幸が復活する[本書576頁]以前にも、延享4年(1747)の桜町天皇と、文化14年(1817)の光格天皇の譲位行幸(天皇の譲位直前における譲位儀場〈桜町殿〉への行幸)は再興されている[本書536・562頁]。朝覲行幸を含め、近世における行幸については、全体的に再考する必要があるのであろう。

 

【主な参考文献】
・高埜利彦「江戸幕府の朝廷支配」(『近世の朝廷と宗教』吉川弘文館、2014年、初出1989年)
・藤田覚「天保期の朝廷と幕府-朝覲行幸再興を中心に-」(『近世政治史と天皇』吉川弘文館、1999年)
・久保貴子『後水尾天皇』(ミネルヴァ書房、2008年)
・石田俊「近世中期における行幸と朝幕関係」(『近世中期朝幕関係の研究』(博士論文)2011年)


【執筆者】
詫間直樹(たくまなおき)
1959 年、香川県生まれ。1984 年、広島大学大学院文学研究科博士課程前期修了(日本古代史専攻)。宮内庁書陵部、宮内庁京都事務所での勤務を経て、現在は川村学園女子大学非常勤講師。

〔主な著書〕
『皇居行幸年表』(続群書類従完成会、1997 年)
『京都御所造営録』1 ~ 5(中央公論美術出版、2010 ~ 2015 年)

詫間直樹編『新皇居行幸年表』
本体11,000円+税
初版発行:2022年4月28日
A5判・上製・カバー装・624頁
ISBN 978-4-8406-2258-5 C3021