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やさしい茶の歴史

やさしい茶の歴史(五)(橋本素子)

仏教儀礼の種類と茶

今回は、入唐僧によって持ち帰られたものをもとに日本で行われた、平安時代の仏教儀礼などにおいて、茶を使う様子を見ていきたい。

仏教儀礼はその内容から、10世紀半ばまでの①護国思想の顕教儀礼、②護国思想の密教儀礼、摂関期以降加わる③私的な顕教儀礼、④私的な密教修法などが見られる(『王朝の仏画と儀礼――善をつくし 美をつくす――』京都国立博物館、1998年。以下仏教儀礼の内容も参照。)

そのうち、茶を使う仏教儀礼・修法としては、①季御読経・法華八講(天皇の追善を祈る)、③法華八講(貴族・上皇の追善を祈る)・羅漢講、④星供・影供などがある。

密教は大日如来の説く教えで、荘厳な技法が特徴であり、秘密に口伝されたもので、日本へは空海・最澄・円仁・円珍らが伝えた。顕教は、密教以外の釈迦の説く教えで、言論や文字で書かれたものである。

元来、寺院の役割は、鎮護国家、国家の安泰と天皇の静安を祈願することにあったため、寺院や宮中などで行われる仏教儀礼も、護国思想の仏教儀礼が主流であった。

それが院政期以降、密教が大流行したため、密教修法のうち私的修法が盛んになっていく。院政期以降の茶の史料を追う際に、星供の一種である北斗供と影供の一種である弘法大師御影供の記事が多く目に入るようになるのは、そのためである。

仏教儀礼で茶を使用する場面

また、仏教儀礼で茶が使用される場面には、3つある。山岸常人氏の仏教儀礼「法会」分析の分類に当てはめてみると次のようになる。

Ⓐ仏教儀礼内容の形式の堂内荘厳・仏供
Ⓑ仏教儀礼内容の附帯部の布施
Ⓒ仏教儀礼内容の附帯部の饗

分かりやすく言えば、Ⓐおそなえ、Ⓑおふせ、Ⓒもてなし、となろう。

法華八講の茶

それでは、「法華八講」における茶の使用について見ていこう。法華八講は、法華経八巻を書写供養し、講説するものである。法華経全八巻を八座で完結させるため「八講」という。講説は、読師が経題を唱え、講師が経釈を行い、問者が経釈について質問すると、講師が答える形式で行われる。大学における卒論の口頭試験のようなものである。

法華八講は、8世紀末には始められ、9世紀後半からは貴族社会でも追善のため行われた。貴族社会で法華八講座が定着すると、次第にその法会や捧物の豪華さを競うようになる。院政期以降は、天皇や上皇の追善のためにも行われた。こうした中で、法華経については、手間をかけることがそのまま功徳につながるとされるようになり、扉の部分に美しい絵画を施す「装飾法華経」が見られるようになる。

ここでは、摂関期の法華八講として、藤原行成の日記『権記』長保3年(1001)9月17日条に見える、道長主催の姉東三条院詮子40歳祝賀の御八講(法華八講)での茶の使用を見る。

御八講がおわって夕座法用の後、禄を諸僧に施したのち、穏座=宴会となった。穏座では、筆者の行成が最初の酒盃を取るという名誉に預かっている。そのあと、御膳(食事)が陪膳(給仕)によって配られた。そして、

ついで藤原朝経と源済政(なりまさ)が茶煎一具を舁き立つ。茶煎一具は瑠璃壺である。ついで陪膳が盃を執る。同盃を二階に置いたということである。

とある。茶煎一具は瑠璃壺、すなわち輸入品のガラス製であった。これは茶瓶に相当するもので、この中に煎じ茶(煮出した茶)が入ったものと見られる。陪膳は、この瑠璃壺から盃に茶を注いだものを参加者に配る。それを飲み終えたあとは盃を集め、棚の上段に置く、という流れであったものと見られる。棚は上下二段で、大きさは分からないが、のちの茶の湯で使用された台子のようなものであったと見られる。

この法華八講の茶の使用は、穏座=宴会で行われているように、Ⓒもてなしにあたる。

羅漢供(講)の茶

次に私的な顕教儀礼である羅漢供を見ていく。

羅漢供は、十六羅漢・五百羅漢をすぐれた修行者として供養しほめたたえる仏教儀礼である。日本では11世紀以降に行われるようになり、十六羅漢を本尊とした。使用される経典は玄奘訳の『法住記』であり、その中には、釈迦入滅ののち、弥勒の出世までの間にあって、自らは滅することなく正しい教えを保持し、衆生を守るのが羅漢であると説かれている。

日本の羅漢供で茶が供えられた初見は、平信範『兵範記』仁平2年(1152)10月12日条である。

場所は平安京の中御門大路の南、大炊御門大路の北、西洞院大路の西、堀川小路の東にあった高陽院(かやのいん)で、この時鳥羽院皇后の藤原泰子邸となっていた。寝殿母屋中央に釈迦三尊の画像を懸け、東西の対の屋に羅漢18鋪を懸け、その前に黒漆の棚を各一脚立て、鐉物各9膳、計18膳を置いた。その膳には、飯汁などとともに、茶煎、すなわち煎じ茶が供えてあった。さらには、この黒漆の棚の下には、茶瓶が各1口と折敷に置かれた手巾が据えられていた。この黒漆の棚は上下二段の棚で、これも台子のようなものであったと見られる。

この羅漢供での茶の使用は、Ⓐおそなえにあたる。

【今回の八木書店の本】
渡辺直彦・厚谷和雄校訂『史料纂集古記録編 権記2』(続群書類従完成会、1987年)
 


橋本素子(はしもともとこ)
1965年岩手県生まれ。神奈川県出身
奈良女子大学大学院文学研究科修了
元(公社)京都府茶業会議所学識経験理事
現在、京都芸術大学非常勤講師

〔主要著書・論文〕
『中世の喫茶文化―儀礼の茶から「茶の湯」へ―』(吉川弘文館、2018年)
『日本茶の歴史』(淡交社 2016年)
『講座日本茶の湯全史 第一巻中世』(茶の湯文化学会編、思文閣出版、共著、2013年)
「宇治茶の伝説と史実」(第18回櫻井徳太郎賞受賞論文・作文集『歴史民俗研究』、板橋区教育委員会、2020年)
「中世後期「御成」における喫茶文化の受容について」(『茶の湯文化学』26、2016年)