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尊経閣善本影印集成

高精細カラー画像で中世人の「声」を聞く―『蔗軒日録』の世界から(川本慎自・東京大学史料編纂所)

季弘大叔と3人の来客

蔗軒日録しゃけんにちろくは、室町時代の東福寺僧・季弘大叔きこうだいしゅく(1421-1487)の日記である【図1】。季弘の生国が備前国であることから、「吉備」と音通の「きび」をとって「蔗軒」と名乗ったのが書名の由来である。文中には「甘蔗庵」と名乗っているところも見られる。

日記が残存するのは、季弘が晩年に堺・海会寺かいえじに住した時期、文明16年(1484)から18年にかけての足かけ3年のもののみであり、同じ東福寺僧の太極たいきょくの日記『碧山日録へきざんにちろく』に比べれば極めて短い。ちなみに太極と季弘は同年の生まれで親交があり、互いの日録にしばしば登場している。

このように短い期間の日記ではあるが、季弘はこの間さまざまな人との交流を持っている。なかでも頻繁に海会寺を訪れて季弘の関心を引いた者が3人いる。琵琶法師の城菊じょうぎく宗住そうじゅうと、還俗した元禅僧の金子西きんしせいである。これら3人から耳にする話は、禅僧の普段の生活では触れることのない目新しいものであったと思しく、季弘は彼らが訪れるたびに詳細に日記に書き留めている。ではそれはどんな話だったのか。

 

琵琶法師と入明僧の「声」

琵琶法師城菊・宗住から聞いたのは、平家物語に関する話、とくに源平合戦期に登場する人々の逸話であった。中世の歴史に親しんだ我々の目からすると、そんなものは特に目新しくもないようにも見えるが、室町期の禅僧は意外にも日本の歴史には疎く、たとえば相国寺僧の瑞渓周鳳ずいけいしゅうほうも鎌倉幕府3代将軍の名前を知らず、当代随一の碩学・一条兼良にわざわざ問い合わせている(『臥雲日件録抜尤がうんにっけんろくばつゆう』)。季弘もそうした例に漏れず、源平合戦期にあらためて興味を持ち、平曲へいきょくを聴きつつその周辺の知識を得ようとしていたのである。

一方、金子西から得たのは中国の風俗習慣についての様々なことであった。これも禅僧にとってはよく見知ったことのように思えるが、室町も後半のこの時期には、実際に中国に渡ったことのある禅僧は実はほんの一握りであり、漢詩漢文には載らない庶民の暮らしのようなことになると、禅僧からしてもはるか遠い世界の出来事なのであった。ところが金子西は遣明船に随行して中国に渡ってこの前年に帰国したばかりであり、中国で見聞きしたことを生き生きと季弘に語って聞かせたのである。

そして季弘がどうしても書き留めておきたいと思ったもの、それは3人の「肉声」であった。図版を見ていただくとわかるとおり、城菊・宗住や金子西の話を書き留めた部分には、びっしりと振り仮名が付されている。たとえば城菊・宗住の話の部分では、平家物語に登場する武家や公家の名前が、「兼実カ子サ子」「為義タメヨシ」「義平ヨシヒラ」…、とこれでもかというほど挙げられ、その一つ一つに丁寧に仮名で読みを振っているのである【図2】。

季弘は、これらの人名を文字として目にしたことはあっても、音として耳にすることははじめてだったのかもしれない。この読みをぜひとも記憶に留めておかなければ、と思った結果がこの振り仮名だったのであろう。金子西から聞いた部分も同じである。「猪肉シヨシユ」「養魚シヤンイ」「マウ」…、金子西の語る中国の風俗のなかで、はじめて聴く生の中国語の発音を興味津々で書き留めたのである【図3・4】。

こうした中世人の実際に発音した「肉声」を記す史料は、抄物しょうもの小歌こうた謡曲ようきょくを除けばそれほど多くはなく、極めて貴重なものであろう。

 

刊本で見逃される「振り仮名」

さて、こうした「振り仮名」は、刊本の史料集で翻刻される際には省略されてしまうことが多い。漢文体で書かれた史料の付訓や返点・送仮名は、筆録者ではなく後の読者が付したものと判断されるからである。しかし、『蔗軒日録』を翻刻した『大日本古記録』は、さすがにこの豊富な振り仮名の史料的価値には気づいていて、「底本の文字に附せられた振仮名は、概ね原のまゝに附したが、極めて有りふれたものに限り省略した」(例言)として、固有名詞に付けられた振り仮名は翻刻している。ただし「ありふれた」と判断されて省略されてしまった部分も多く、たとえば「スキ兄弟」の「スキ」は翻刻されていない【図5】。

そうした刊本では省略されてしまった振り仮名も含めて、今回影印された高精細カラー画像では、細かなカナ文字まで余すことなく見ることができる。季弘のもとを様々な人物が訪れていることは、これまでの研究でも多く言及されてきたが、あらためて「振り仮名」に注目することで、より臨場感あふれる世界がひろがってゆくことであろう。

平曲語りの城菊・宗住と中国帰りの金子西、この3人の中世人の「肉声」に、高精細カラー画像を通じて、ぜひ耳ではなく目を傾けていただきたい。


川本 慎自(かわもと しんじ)
東京大学史料編纂所准教授(中世史料部門)。日本中世史。前田育徳会尊経閣文庫編『尊経閣善本影印集成76 蔗軒日録・盲聾記』(八木書店、2021年)で「蔗軒日録」の解説を担当。
〔主な著作〕
『中世禅宗の儒学学習と科学知識』(思文閣出版、2021年)、『空華日用工夫略集の周辺』〔共編〕(義堂の会、2017年)。