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出版部

凡例のない辞書――『日葡辞書』を読み解くために(中野 遙)

キリシタンの日本語学習の集大成『日葡辞書』

16世紀の大航海時代、日本では、イエズス会宣教師によるキリスト教布教活動が行われる。その中で、布教を目的として、イエズス会を中心に編纂・刊行された出版物の事を、キリシタン版と呼ぶ。キリシタン版には、修徳書・教義書の他、文学書や語学辞書も含まれる。

『日葡辞書』(1603-04、長崎)は、そのキリシタン版語学辞書の中でも特に大部のものであり、その見出し語数は約33,000語と、当時の日本語辞書・ポルトガル語辞書に於いても他に類を見ない規模となっている。収めている語彙の種類も多岐に亘っており、当時の日本辞書ではほぼ記録されていない、当時の話し言葉や俗語、方言などの位相語も見出し語に立項している点が特筆される。これは、キリシタンが布教をするに当たって、幅広い話し言葉を理解し、説教の際に日本語を話せなければならなかったためである。

『日葡辞書』は、その規模や、刊行時期がキリシタン時代末期である事からも、それまでのキリシタンの日本語学習の成果が反映されていると言え、中世日本語の第一級の言語資料であるだけでなく、歴史学や文化史学、ポルトガル語史、更には日欧言語交流史に於いても大きな意味を持つ資料と言える。

『日葡辞書』原文精読の必要性

『日葡辞書』の研究は、当然これまでも進められている。その中でも特筆されるもののひとつが、土井忠生・森田武・長南実編訳『邦訳 日葡辞書』(1980、岩波書店)である。邦訳の刊行により、『日葡辞書』の内容を確認する事が格段に容易になったため(それまで『日葡辞書』を参照するためには、当然ポルトガル語の理解が必要になっていた)、幅広い分野に於いて『日葡辞書』の記述が参照される機会が増えたと言える。しかし、その利便性から、『日葡辞書』の原文を参照・確認し、本文を読んだ上で行われる研究が行われにくくなってしまったという事実もある。邦訳版で整理されてしまっている文章だけを見てしまい、原文の記述に気付かないという場合も、ないとは言い切れない。

例えば、『日葡辞書』原文で用いられている「i.(id est/ラテン語で「すなわち」の意味の注記)」や「l. (vel/ラテン語で「または」の意味の注記)」は、『邦訳 日葡辞書』では、原則として注記の形ではなく、「すなわち」「または」と日本語に開いて用いられている。つまり、邦訳版だけを見ているのでは、どこで「i.」「l.」といった注記が使われているのか、把握しにくくなっている。

また、『日葡辞書』は本篇と補遺篇の2つに分かれているのだが、邦訳版ではこの2つの見出し語が合わせて立項されている。勿論、その事情についても『邦訳 日葡辞書』内に記述はあるものの、一見すると本篇と補遺篇の見出し語が別々に立項されているというイメージは摑みにくく、本篇と補遺篇との見出し語や語釈の違いにも、なかなか気付きにくい。原文ではローマ字活字でしか印刷されていない日本語部分に、邦訳では普通に漢字仮名表記が記されているという点も、原文と邦訳とで、読み手の受ける印象は大きく異なるだろう。

このように、原文に基づかない限り、『日葡辞書』の記述や構成について精確には理解出来ない点が出てくる。

『日葡辞書』をより精確に理解するために

現代の辞書には、その冒頭に必ず凡例が付されており、辞書本文内で使われている注記・略記の理解の仕方は、そこで説明されている。しかし、キリシタン時代の辞書は、必ずしもそうはなっていない。『日葡辞書』の序文中に簡単な説明はあるものの、その詳しい効果や意味については明かされていない。そのため、ただ原文を読めばただちに注記の効果・意図がわかる、というものでもない。

本書『キリシタン版 日葡辞書の解明』では、『日葡辞書』をより精確に読み理解するため、原文の全本文データと、その日本語部分に漢字仮名表記を付したデータを用いて、徹底的且つ客観的な調査を行っている。それにより、先ほども述べた「i.」「l.」をはじめとした、種々の注記の分布や使用例を網羅的に調査し、これまで明らかにされてこなかった『日葡辞書』中で注記の機能を明確なものにした。また、見出し語に立項されている語彙と見出し語以外の日本語箇所の語彙との関係から、見出し語の立項方針を、序文の記述内容とその印刷状況から、『日葡辞書』の編纂方針を、本書で明らかにしている。

資料の記述内容を読み解く事、そして資料の性格や編纂方針を理解する事は、その資料を精確に理解し運用するのに重要である。日本で宣教を行ったキリシタンがどのように日本語を学び、捉えていたのか、そしてどのような辞書を目指し、編纂していたのか。本書がその解明の助けとなるだろう。

なお、下記URLから本書『キリシタン版 日葡辞書の解明』の「目次」「序章」「索引」が閲覧できる(PDFファイル)。
https://catalogue.books-yagi.co.jp/files/pdf/d9784840622424.pdf


【著者】
中野 遙(なかのはるか)
1991年 神奈川県生まれ
2013年 上智大学文学部卒業
2019年 上智大学大学院博士後期課程修了(博士〔文学〕)
現 在 日本学術振興会特別研究員(PD)
〔主な著作〕
『キリシタン版 日葡辞書の解明』(単著、八木書店、2021年)
『リオ・デ・ジャネイロ国立図書館蔵 日葡辞書』(解説担当、八木書店、2020年)