ハンコとサイン(矢越葉子)
正倉院文書のハンコ
昨今、行政手続き上の「脱ハンコ」が話題になっているが、現代では納税や婚姻といった公的な手続きのみならず、会社や銀行での事務手続き、果ては宅配便の受け取りや子供の学校の連絡帳にまで印が利用されている。このように「ハンコ文化」と称されるほど印が広く一般に利用されるようになったのは近世以降とされるが、それ以前の社会ではどうであったのか。
古代におけるハンコ(印)の利用を考える上で手がかりになるのが奈良・正倉院宝庫に伝来した正倉院文書である。周知の通り、日本最初の印は後漢の光武帝から建武中元2年(57)に贈られた「漢委奴国王」の金印であるが、その次に現れる実物の印は正倉院文書中に残る大宝2年(702)の筑前・豊前・豊後の三国の戸籍(西海道戸籍)に踏印された諸国印である。同じく大宝2年の戸籍としては美濃国の戸籍(御野国戸籍)も現存しているものの、こちらには国印が捺されていない。
諸国印については、大宝律令の制定と前後して、大宝元年6月8日に七道に新印の様を頒布し、慶雲元年(704)4月9日に鍛冶司に諸国印を鋳造させ(『続日本紀』)、これ以降、中央政府から諸国に印が配布された。この慶雲元年以降、諸国から中央政府に進上される戸籍や計帳といった文書や調庸物には国印が捺されるようになる(したがって、大宝2年の戸籍の場合、西海道戸籍は国印が頒下された後に進上されたことになる)。
この朱色の国印が全面に捺された戸籍の写真は高校までの日本史の図録等に多く掲載されているため、古代の文書には印が捺されるものと思っている方も多いであろう。
併用されたサイン
しかし、中央政府に目を転じると、天皇の意思や政策の伝達に欠かせない内印(天皇御璽)や外印(太政官印)は早くに整備されたものの、中央官庁内における印の使用は遅れ、養老3年(719)12月2日にようやく中務以外の八省と春宮に印を充てた(『続日本紀』)。八省の筆頭である中務省はこれ以前から印を使用していたと考えられるが、省と省の間でやり取りする文書に印が捺されるのはこの養老3年以降ということになる。
つまり、日常的な官庁間の文書のやり取りや省内の決裁過程において印は不可欠ではなかったのだ。印の代わりに大きな役割を果たしていたのは官人たちの自署であった。四等官全員がずらっと署名を施した古代の文書を目にしたことがある方もいらっしゃるであろう。日本古代は「ハンコ文化」であると同時に「サイン文化」だったのである。
正倉院文書の中には点数は少ないものの中央官庁間でやり取りされた文書が残り、正倉院文書を形成した皇后宮職系統の写経所で行われた写経事業や石山寺(現滋賀県)増改築に当たって作成された多数の帳簿や文書が残る。これら文書や帳簿を検討する際に文面に基づいて考察を進めることが多いが、目に入りやすい印に加えて、官人たちの署名に着目することで決裁や処理の過程をより明確に把握することができる。
これら印や署名の役割も含めて、自著『日本古代の文書行政―正倉院文書の形成と復原―』では日本古代で行われていた日常的な文書のやり取りや決裁、すなわち文書行政を論じているので、是非ご覧いただきたい。
なお、下記URLから本書の「はじめに―研究の視角―」「目次」「索引」が閲覧できる(PDFファイル)。あわせて参照されたい。
https://catalogue.books-yagi.co.jp/files/pdf/d9784840622400.pdf
■矢越葉子(やごし ようこ)
1980年 新潟県に生まれ、東京都で育つ
2002年 お茶の水女子大学卒業
2013年 お茶の水女子大学大学院にて学位取得(博士(人文科学))
2013年 明治大学研究・知財戦略機構 研究推進員(ポスト・ドクター)
現 在 明治大学研究・知財戦略機構 研究推進員、市川市史編さん専門員
〔主な著作〕
『日本古代の文書行政―正倉院文書の形成と復原―』(八木書店、2020年)
明治大学広開土王碑拓本刊行委員会編『明治大学図書館所蔵 高句麗広開土王碑拓本』(八木書店、2019年)
市川市史編さん歴史部会(古代)下総国戸籍研究グループ編『市川市史編さん事業調査報告書 下総国戸籍』写真編、釈文編・解説編(市川市、2012年)ほか多数