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出版部

室町前・中期における伊勢神宮の日々の営みを記した書

このたび刊行した『氏経卿神事記〈史料纂集 古記録篇〉』は、15世紀前半から末期にかけての伊勢神宮(内宮)の禰宜のひとりである荒木田(藤波)氏経という人物が記した古記録の翻刻の第2冊(完結)である。

『氏経卿神事記』には、内宮の年中諸祭儀を奉仕する日々の様子、そして殿舎の状況や宮域の様子など内宮の歴史的景観にもかかわるような記述があるほか、門前町ともいうべき宇治(現在“おはらいまち”として賑わう一郭を含めたその近隣域)の市井の風景や伊勢神宮周辺域一帯の政治的情勢にまでおよぶ。

伊勢神宮の中世史料をめぐる状況

実は『氏経卿神事記』は、すでに『神宮年中行事大成 前篇〈大神宮叢書〉』(西濃印刷岐阜支店、1938年)において活字翻刻されたことがある(ちなみに、現在流通する『神宮年中行事大成 前篇〈増補大神宮叢書13〉』吉川弘文館、2007)は、前記(1938年)版の再版である)。したがって、長いあいだ室町前・中期の伊勢神宮にかんする研究において、『氏経卿神事記』については、この戦前の史料研究の水準に基づいたものが使用されてきたわけである。

こうしたなか1984年に『神宮古典籍影印叢刊 神宮行事 遷宮記』(八木書店、1984)として、氏経の自筆原本分がわずかな年次分とはいえ影印版行されたことは重要である。なかでも同書の解題では、安江和宣氏によって各種諸本の綿密な比較検討に基づいた諸本研究の成果が整理されており、今日に至るまでの写本系統にかんする知見の基層をかたちづくった。

一方、90年代以降の30年間に『三重県史』や『伊勢市史』の編纂・刊行がなされ、中世の伊勢神宮、あるいは中世における伊勢国・志摩国の歴史を繙くための概説書や史料の整備が急速に進んだ。なかでも『三重県史 資料編中世1(上)』では、従来、まとまったかたちで史料翻刻されることのなかった『氏経卿引付』(全6冊。氏経が授受をおこなった文書の案文を集成した引付史料)が翻刻され、研究史上特筆すべき成果であった。なぜならば『氏経卿引付』所収の少なからざる文書が、『氏経卿神事記』の文書の授受をおこなったという記事における、その文書の控となっていたからである。すなわち『氏経卿神事記』は、『氏経卿引付』所収の関連文書と併せて読むことにより、より一層豊かな歴史像を描き出すことができる関係にあるのである。

本書の特徴

以上のような状況を踏まえ、本書の編纂にあたっては自筆本を含めた諸本対校による原状復原を意識した編纂をおこなった。さらに利用者の便宜のため頭註や付録についても充実を図ることとした。

まずは通常の頭注に加えて本書独自に加えた『氏経卿引付』(『三重県史 資料編中世1〈上〉』)所収文書にかんする紙面上欄に標出の参考註である。

寛正5年9月17日条は、神嘗祭にかんする記事である。神嘗祭とは、伊勢神宮の年中祭儀のうちでも取り分けて国家的意義も大きな祭儀なのであるが、このときの祭儀ではこともあろうに正殿の間近において祭儀に付き従った武士の下人らのあいだで刃傷沙汰が発生し、その血により殿舎が汚されるという重大事件が発生した。

 

こんにちの清浄を宗とするような宮域を見知る我われとしては、なんとも血生臭い事件が宮域内、しかも正殿間際で生じていたことに驚かされる記事である。誠に興味深い『氏経卿神事記』の記事ではあるが、このときに事態収拾のため祭主や一禰宜、およびその他の内宮の神官ら、関係者のあいだで授受された文書の案文が『氏経卿引付』第4冊254~256号(『三重県史 資料編中世1〈上〉』)であり、上欄に標出した参考註はそれを示している。

あくまで一例に過ぎないが、このように『神事記』の記事にかかわる文書が引付史料として確認できるものは、網羅的にその情報を参考頭注として掲出をおこなった。

また本書利用の際の参考資料として、巻末図版・表を充実させた。〔伊勢・志摩関係地図〕〔中世内宮宮域図〕〔内院図〕〔年中祭儀一覧〕な どである。

地図図版関係では、神宮の年中祭儀にかんする記述を読み進めるうえで頻出する祭礼料所などを掲載した。また〔中世内宮宮域図〕では、『神事記』以外の神宮関連史料をも参考に中世当時における宮域図を試み的に復原をおこなった。

加えて、『氏経卿神事記』が室町前・中期を通じた比較的まとまった古記録であること、また当該期伊勢地方、伊勢神宮周辺の政治動向にかんする有益な史料であることは間違いないけれど、やはりこの史料の神社の神官が日々の祭儀執行の様子を記したものという第一義は忘れてはならない。その際、祭儀にかんする基礎的な知識は、本史料の講読に際してはなおざりにはできないはずである。そこで、あくまで簡易的なものに過ぎないけれど、内宮の一年を通じた祭儀を俯瞰するため〔年中祭儀一覧〕も用意したので、併せてご活用いただければ幸いである。


比企貴之
1984年東京都生まれ。愛知県出身。出版社勤務を経て、國學院大學大学院文学研究科博士課程後期単位取得満期退学。2019年博士(歴史学)取得。現在、國學院大學文学部兼任講師、同研究開発推進機構(校史・学術資産研究センター)PD研究員。
主要著書・論文
『史料纂集古記録編 氏経卿神事記』1・2(全2冊完結、野村朋弘との共同校訂、2016年・2020年)
「伊勢神宮祠官・職掌人の宿直勤番制」(『国史学』226、2019)
「伊勢神宮古祭儀-春季神態神事-の復元考察」(『神道宗教』 250 ・251、2018)
「自筆『氏経卿神事記』と諸写本の展開」(『神道宗教』 242、2016)
「中世後期の神宮における宮司の動向」(『国史学』212、2014)