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出版部

太閤検地と兵農分離 中世~近世のはざまで―土着武士は、いかに動いたか?―(神田 千里)

「井戸村家文書」と研究史

「井戸村家文書」は長浜市歴史博物館に所蔵される、近江国坂田郡箕浦村の土豪井戸村家に伝来した文書群である。昭和10年代に原文書、及びそのうち330余通を筆写収録した『歴代古書年譜』三冊が共に市井に流出してしまった。滋賀県文化財保護審議会委員であった中村林一氏(故人)の努力で『歴代古書年譜』と原文書数十点が購入・収集され、長浜市に寄贈され現在に至った。

この文書群を有名にしたのは、戦後すぐの近世史研究において時代区分を構築した太閤検地論・兵農分離論である。これに関わる研究の中で、天正19年(1591)の井戸村与六宛作職書上(八郎右衛門作職書上、本書52号)が注目され、広く知られるようになった。以後の研究においても「井戸村家文書」は、太閤検地・兵農分離による中世から近世への移行を典型的に見ることのできる史料として注目されてきた。

しかし一方、こうした研究動向の中では、上記「作職書上」とそれに関わる幾つかの文書、及び『近江国坂田郡志』に翻刻された中世文書は研究対象とされてきたものの、それ以外の200数十点に及ぶ近世文書は殆ど利用されず、顧慮もされてこなかったことは否めない。『歴代古書年譜』に筆写収録された文書群が大部である上、個々の文書もかなり難解であることがこうした傾向の一因と考えられる。

 

翻刻の意図

『井戸村家文書』第1・第2に(史料纂集古文書編第49・50回配本)はこのような研究状況に新たな活路が開けることを期待し、「井戸村家文書」の全容を明らかにすべく342点の文書と、さらに井戸村家の活動の背景に関わる史料の一つである、近隣の飯村を本拠として活動した土豪嶋氏の年代記『嶋物語』とを翻刻したものである。

1980年代になり、太閤検地・兵農分離で中世・近世を必ずしも截然と分けず、両者の連続性にも注目する研究動向が生まれたが、その動向の中で2001年に長谷川裕子氏(現福井大学教育学部教授)により、近世前期の「井戸村家文書」を用いての、前記「作職書上」に関する全く新たな解釈が提示された。これに注目した研究者たちが中世・近世の時代区分を問題とし、2004年に長谷川裕子・渡辺尚志編『中世・近世土地所有史の再構築』が刊行された。『井戸村家文書』翻刻・校訂の母体となった「井戸村文書研究会」は上記の動向に関わり、あるいは注目した研究者たちの中から生まれたものの一つである。

 

井戸村文書研究会の誕生と出版

研究会誕生の具体的経緯は、記憶はもはや定かでないが神田の私的メモによると、黒田基樹氏(現駿河台大学法学部教授)から提案を受けた神田が2007年に最初の研究会を開いたことに始まった。遠藤ゆり子氏(現淑徳大学人文学部教授)、功刀俊宏氏(現江東区文化財専門員)、黒田氏、柴裕之氏(現東洋大学非常勤講師・千葉県文書館会計年度任用職員)、鈴木将典氏(現静岡市文化振興財団学芸員)、長谷川氏、および神田が中心となったが、まもなく白川部達夫氏(現東洋大学名誉教授)が加わり、この8名が最初の翻刻に関わるメンバーとなった。なお始めのうちは奥野友美氏(現練馬区立石神井公園ふるさと文化館学芸員)も参加していたと思う。

当初は長谷川氏が個人的に進めていた『歴代古書年譜』の翻刻をてがかりとし、少しずつ読んでいくという形であったが、まもなく科学研究費補助金を獲得しようという話になり、2008年度の応募により翌年度から4年間支給されることになった。最初に試みたのは長浜市歴史博物館所蔵の原文書と『歴代古書年譜』の撮影であり、その折は太田浩司氏(同博物館前館長)に大変お世話になった。2009年10月の研究会では、撮影した写真をプロジェクターでスクリーンに投影し、それを見ながら議論・解読することができ、現代科学技術の恩恵を改めて感じたことを憶えている。

凡そ月1回のペースで木曜日に(途中から水曜日に)集まり解読を進めた。途中から遠藤氏、ついで長谷川氏が、職場が変わったために参加できなくなったものの、研究会は2012年度迄続いた。翻刻がなかなか進まず、長谷川氏の赴任先であった福井市で強化合宿をしたこともあるが、2013年正月まで(科研費最終年度末)に『歴代古書年譜』収載文書に限って一応の読み本を作成できた。しかし『歴代古書年譜』に詳細に記入されている作成者の頭注と、『歴代古書年譜』から漏れた中世文書等との翻刻が残った。

上記の点を改善した翻刻を作ろうという話になり、黒田氏と神田とが八木書店出版部の柴田充朗氏に面会したのが2015年3月、ここから本書の作成が始まった。作業を終えて最も強い印象が残るのは、中世から19世紀に及ぶ間、村落で重要な役割を果たしてきた土着武士井戸村氏の姿である。余り注目されて来なかった中近世村落の一面を垣間見ることの出来る史料集になったとささやかながら自負している。


神田千里(かんだちさと)

〔略歴〕
1949年東京都生まれ。東洋大学名誉教授。1976年東京大学文学部卒、1983年同大学院博士課程単位取得退学。1999年「一向一揆と戦国社会」で博士(文学、東京大学)。高知大学人文学部助教授、同教授、東洋大学文学部教授。2020年定年退任。

〔主な著作〕
『史料纂集古文書編 第49回配本 井戸村家文書1』(白川部達夫との校訂)八木書店、2020年
『史料纂集古文書編 第50回配本 井戸村家文書2』(白川部達夫との校訂)八木書店、2020年
『一向一揆と真宗信仰』 吉川弘文館 中世史研究選書、1991年
『信長と石山合戦―中世の信仰と一揆』 吉川弘文館、1995年、新版2008年
『一向一揆と戦国社会』 吉川弘文館、1998年
『戦国乱世を生きる力 日本の中世11』 中央公論新社、2002年
『土一揆の時代』 吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー〉、2004年
『島原の乱 キリシタン信仰と武装蜂起』 中央公論新社〈中公新書〉、2005年/講談社学術文庫、2018年
『一向一揆と石山合戦 戦争の日本史14』 吉川弘文館、2007年10月
『宗教で読む戦国時代』 講談社選書メチエ、2010年
『蓮如―乱世の民衆とともに歩んだ宗教者』 山川出版社〈日本史リブレット人〉、2012年
『戦国時代の自力と秩序』 吉川弘文館、2013年
『織田信長』 筑摩書房〈ちくま新書〉、2014年
『戦国と宗教』岩波書店〈岩波新書〉、2016年
『宣教師と『太平記』』集英社新書〈本と日本史〉、2017年
『顕如―仏法再興の志を励まれ候べく候』ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2020年