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洒竹文庫及び和田維四郎氏

宮崎三昧氏の蔵書【洒竹文庫及び和田維四郎氏16・最終回】

村口 その時分の事です、なかなか売り惜しみもしましたが、良い品物を売ったのは宮崎三昧さんでした。とにかく、この人は三十年間本を売って喰べていたんですからね。

ところでこの宮崎三昧という人は、私が間接に殺したようなものなんです。この人がいよいよ身体がいけなくなって来ると、無闇に妻君の事が気にかかって来たらしいのです。何か妻君に残して行ってやりたいというので本を売る事にした、それで私を呼んだ。この人はそれまでは、自分が身体が悪くて腹這いになって行っても、その書庫は絶対に他人に見せなかった。その書庫を私に見せて、そうして特別に買ってくれと言うので、なんでも三千五百円だかで買いました。

すると三昧さんが、村口さん、このお金で今後どういう風にして喰って行ったらいいでしょう、と言いますから、それでは先ず長屋をお建てなさい、そのうち一軒にお入りになって、奥さんが菓子屋でも煎餅屋でもおやりになったらよろしいでしょう。ちょうど私の知っているよい大工がありますから、お世話致しましょう、と申しましたら、大変喜ばれた。そうすると、その翌朝、電報で宮崎死んだという通知が来ました。つまり後のお膳立が出来たので、安心して死んでしまったのですね。

そんな風ですから、三昧さんの本はすっかりないものと思っていました。そうして半歳ばかり経つと、神尾文治郎という人がやって来た。この人は非常な珍書持ちで、安田さんなどが垂涎する物ばかりを持っておられました。鐘ヶ淵紡績会社の重役で、少し変人でした。奥さんと別れて向島の牛乳屋の二階を間借りして、そこにうんと本をしまって置いた、その人が見えまして、村口君、君は宮崎に一杯やられたね、と言う。どうしてです、と言うと、宮崎の妻君が僕の所へ本を売りに来た、と言う。それじゃ今、妻君はどこに居ります、と訊いたところが、聖天町に居ると言うのですぐ出掛けました。

そうして露地の奥の汚い家でしたが、そこで妻君に会っていろいろ責めたのです。すると妻君が、実はあの前の晩に、これだけはお前取ってお置き、と言われて言われるまま別に致していたのだとの事でした。そんな風でして、宮崎という人は、細かい人でした。その人の日記を、その本と一緒に手に入れた。向うは売るつもりはなかったんでしょうが、本の間にまじってはいって来た。それが頗る面白い、一寸例をあげて見ますと、何月幾日加賀豊三郎来る、とまあ書いてある。そのあとへ三点か四点の本の評価がついている、評価〆ていくら、そのあとへ「又加賀は値切るからこの位にしよう、まだこれでは値切られるからいかん」とまた直してある、実に面白い日記でした。

(おわり)


※発言者
(姓・・・・・・商号 氏名)
村口・・・・・・村口書店 村口半次郎氏
反町・・・・・・弘文荘 反町茂雄氏
〇聴講者
青木・・・・・・青木書店 青木正美氏
東・・・・・・東書店 東浅吉氏
大雲・・・・・・大雲堂書店 大雲英二氏
市川・・・・・・市川書店 市川円応氏
太田・・・・・・井上支店 太田保雄氏
鹿島・・・・・・光明堂書店 鹿島元吉氏
窪川・・・・・・窪川書店 窪川精治氏
小林・・・・・・小林書店 小林静生氏
小宮山・・・・・・小宮山書店 小宮山慶一氏
酒井・・・・・・十字屋書店 酒井嘉七氏
佐藤・・・・・・崇文荘書店 佐藤毅氏
諏訪・・・・・・悠久堂書店 諏訪久作氏
高林(定)・・・・・・一心堂書店 高林定輔氏
高林(末)・・・・・・東陽堂書店 高林末吉氏
西塚・・・・・・巖南堂書店 西塚定一氏
松村・・・・・・松村書店 松村竜一氏
八木(荘)・・・・・・八木書店 八木壮一氏
八木(敏)・・・・・・八木書店 八木敏夫氏
八木(正)・・・・・・安土堂書店 八木正自氏
山田・・・・・・山田書店 山田朝一氏
吉田・・・・・・浅倉屋書店 吉田直吉(後の11代目吉田久兵衛)氏


(62) 大久保紫香 明治大正時代の愛書家。本所亀島町で質屋を営み、紫香と号して文筆をも弄した。
(63) 高橋太華 明治中期の文筆家。少年雑誌「少年園」の編集主任。
(64) 宮崎三昧 前出第四話注(78)参照。
(65) 岡田朝太郎 刑法学者。法学博士、東大教授。また三面子と号して、好んで川柳を研究し、古書にもかなり詳しかった。
(66) 清水晴風 画家、また人形の蒐集家。人形に関する著述が多い。
(67) 横山町 中央区日本橋横山町。小間物雑貨の問屋街。
(68) 下付(したづけ) 二人で入札する場合に、下値を入れた人が、罰として何がしか金額を上値の人に支払う形の賭け事。


著者

村口半次郎
村口書房(東京市神田区今川小路二丁目十七〔旧地名〕)初代主人

下谷御徒町の、有名な浮世絵版画商吉金(吉田金兵衛)方で修業。吉金は版画と共に古書を販売したが、村口さんは古典籍を主とし、中年以後は浮世絵は殆ど扱わないようでした。明治三十年頃から活躍し、四十年頃から大正九年まで、大蒐書家和田維四郎の特別の受顧を受け、そのおかげで、古典籍についての知識を広くすると同時に、業界に雄飛するに十分な資財を獲得。大正末期から昭和十年頃までが全盛期でした。古典籍業界では、東西を通じて第一の実力者として、また書林定市会(後の東京古典会)の顧問(という名の会長)として、勢威を振るいました。昭和十五年一月歿。六十五歳。


※このコラムは反町茂雄編『紙魚の昔がたり』(明治大正篇)でお読みいただけます。

          

『紙魚の昔がたり』(明治大正篇)  関連書・『紙魚の昔がたり』(昭和篇)