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洒竹文庫及び和田維四郎氏

宋版「論語」と外国為替【洒竹文庫及び和田維四郎氏8】

村口 それから文求堂さんの宋版の「論語」。これでは私は和田さんに叱られたのでなく、岩崎さんから叱られた。これは文求堂が悪いのではなく、私はその品物を聞いただけで見てないから無理もないのです。

事の起こりは「今度北京で『論語』の注疏のいいのを見て来たが、四千円というので、買い切れずに帰った」という話であったから、すぐにそのままを岩崎家に話をすると「『論語』ならよいから買ったらよいだろう」という話で、文求氏へお頼み申し文求氏が取り寄せてくれた。

値を見ると大変である。その当時銀が高くて日本の一円があっちの六十八銭か七十銭にしか通用しない。私は知らないから四千円と言ったが、日本の金にすると六千幾ら払わにゃならぬ。その時岩崎さんが「宋版を支那から買うような者は、銀の相場位、覚えんければいけない」とあの温厚な岩崎さんに言われました。それから銅版の揃ったもので高いものだったが……。

井上 それは乾隆帝(41)が蒙古を攻めました時、乾隆帝が非常なる勝利であったから、勝ちましたその記念に拵えたもので十八枚のものです。私は一枚だけ福島大将の遺品を買いまして、今でも家にございますが、蒙古を攻めました乾隆帝が、その戦いの図を画かせたものを銅版としてパリへ頼んでこしらえたものです。

それを文求さんからとって、こちら(村口)が岩崎へ入れましたのですね、一揃二千円という大物で、完全なものです。枚数は十八枚、一枚の大きさはこの位(約四尺)という結構なものです。何しろ乾隆帝が今から百数十年前かに、パリで拵えました、原語でパリとあり、乾隆帝の字もチャンとはいっております。

諏訪 今度拝見したいものですね。

井上 今度お目にかけます。

窪川 宋版の「論語」の損はどのような具合になったのですか。

村口 損はしない、憤られただけですんだのですが、(笑声)二千円も損をしてたまるものではない。先様は天下の岩崎家ですもの。次に芝の村幸さんからは数回に二万円程買いましたが、村幸さんは前の穢い長屋から新築の家へ越され、その当時、会う度ごとに「あなたのために家が出来た」と悦んでいました。

それから「集古筆鑑」というものですが、各儒者歌人等の真蹟を貼り集めたものが二十八冊、幅物が八十幅程、二万円で萩野さん(42)から引き受けて、「集古筆鑑」二十八冊一揃いと儒者物の幅は、久原文庫が出来上がったら部屋へ掛け替えるということになって、はいっている。

井上 「先哲遺墨(43)」という書名で出版しました、あれですね。

村口 錦絵は酒井好古堂や、小林(文七)さんから三万円程、そのほか諸処で買い集められたので、合計十万円ばかりございました、経巻は二十万円位買っている。

(つづく)


※発言者
(姓・・・・・・商号 氏名)
村口・・・・・・村口書店 村口半次郎氏
反町・・・・・・弘文荘 反町茂雄氏
〇聴講者
青木・・・・・・青木書店 青木正美氏
東・・・・・・東書店 東浅吉氏
大雲・・・・・・大雲堂書店 大雲英二氏
市川・・・・・・市川書店 市川円応氏
太田・・・・・・井上支店 太田保雄氏
鹿島・・・・・・光明堂書店 鹿島元吉氏
窪川・・・・・・窪川書店 窪川精治氏
小林・・・・・・小林書店 小林静生氏
小宮山・・・・・・小宮山書店 小宮山慶一氏
酒井・・・・・・十字屋書店 酒井嘉七氏
佐藤・・・・・・崇文荘書店 佐藤毅氏
諏訪・・・・・・悠久堂書店 諏訪久作氏
高林(定)・・・・・・一心堂書店 高林定輔氏
高林(末)・・・・・・東陽堂書店 高林末吉氏
西塚・・・・・・巖南堂書店 西塚定一氏
松村・・・・・・松村書店 松村竜一氏
八木(荘)・・・・・・八木書店 八木壮一氏
八木(敏)・・・・・・八木書店 八木敏夫氏
八木(正)・・・・・・安土堂書店 八木正自氏
山田・・・・・・山田書店 山田朝一氏
吉田・・・・・・浅倉屋書店 吉田直吉(後の11代目吉田久兵衛)氏


(41) 乾隆帝 清朝第六代の高宗純皇帝。乾隆はその治政時の年号。近隣諸国に兵を出して成功し、清朝の極盛期を致した。
(42) 萩野さん 東大教授、文学博士萩野由之。国史の権威者。名家自筆本の蒐集で知られる。
(43) 「先哲遺墨」 萩野博士蒐集の名家自筆本の図録。


著者

村口半次郎
村口書房(東京市神田区今川小路二丁目十七〔旧地名〕)初代主人

下谷御徒町の、有名な浮世絵版画商吉金(吉田金兵衛)方で修業。吉金は版画と共に古書を販売したが、村口さんは古典籍を主とし、中年以後は浮世絵は殆ど扱わないようでした。明治三十年頃から活躍し、四十年頃から大正九年まで、大蒐書家和田維四郎の特別の受顧を受け、そのおかげで、古典籍についての知識を広くすると同時に、業界に雄飛するに十分な資財を獲得。大正末期から昭和十年頃までが全盛期でした。古典籍業界では、東西を通じて第一の実力者として、また書林定市会(後の東京古典会)の顧問(という名の会長)として、勢威を振るいました。昭和十五年一月歿。六十五歳。


※このコラムは反町茂雄編『紙魚の昔がたり』(明治大正篇)でお読みいただけます。

          

『紙魚の昔がたり』(明治大正篇)  関連書・『紙魚の昔がたり』(昭和篇)