岩崎・久原両文庫の設立【洒竹文庫及び和田維四郎氏3】
村口 久原さんは「有難く頂戴する」と言って住吉へ帰って、三十坪もある講堂のような所へ入れるつもりで、高島屋へ註文して箱を拵(こしら)えさした。
ところが高島屋、なかなか拵えて来ない。一方和田さんは玄関へ本を一杯積んであって、気の短い方だからイライラしているところへ、岩崎久弥さんが来られた、和田さんが岩崎さんにこの本を御譲りしようと申したので、岩崎さんが喜んで御受け致そうという事になり、すぐ私が宰領して本郷切通しの岩崎家へ運んでしまった。
この方が利口である。
先に本を買ってから庫を作ろうというので。(笑声)すると岩崎さんへやってしまったすぐ後で、久原さんが「箱が出来たから本を頂戴したい」といって来た。
和田さんも弱って、久原さんと約束したが貰いに来ないから、いらんもんだと思って岩崎さんへやったのに、貰いに来た、えらいことになったと、私を呼んで「あれと同じようなものを一週間内に集めろ」「とても一週間では出来ませぬ」「どの位かかる」「先ず三月あったら集めましょう、その代り似て非なるものでしょう」「何でもよい集めろ」ということで急速に集め出しました。
先方には目録をやったわけでないから同じものでなくてもよいが、とにかく私は急速に集めて大行李(こうり)で六十五行李ばかり拵えた。前のより多いかというと無論少ないが「余り長くなってもいけないから久原さんへ送ろう」「どこの久原ですか」「大阪の住吉の久原房之助だ」。
私ははじめて聞いたので、久原さんを教えられ、私が宰領をして行くことになった。その時和田さんは「久原という男は非常に激しい男だから、行ったら余談を決してするなよ。そうして訊(き)くことは本は何冊、どの位の価格かと訊くから」と言われて行きました。
案の定、すぐ訊かれた……。行って見たところが素晴らしい大変な屋敷で、庭だけ歩くのに半日もかかるという大したもんでした。
「少し忙しいから、一寸十分だけお目にかかる」というのでお目にかかりました、「本はどの位来ました」「何部何万冊、価格は幾ら幾ら」「アアそうですか」。そこに番頭さんが居て何とか言われたが……、「これから書物の事は万事この番頭がするから宜敷(よろし)きように、私は大阪へ行くから」と言ってお立ちになった、私はそこへ泊って、翌日本は全部二階へ上げた。
久原さんは文庫を作っても御本には趣味がないが、ただ和田さんが居られたためにあの位引きずられたものと思われます。これが第一回、後は第二回、第三回と切って岩崎さんへも入れ、久原さんへも本を入れましたが、その時分は金高は微々たるものでありました。
反町 その第一回は何年頃です。
村口 第一回は左様、大正四年頃からです。岩崎・久原両文庫は、大正四年から大正九年までで終わっているのです。
その時分の金額は、御両方共々で三万円位しか、家庭文庫としては両文庫へ本は入っておらない。
その内に、和田雲村さんがだんだんと古版書に熱が白熱化して来て珍書道楽になり、諸家の蔵書を大分買われましたが、概略申し上げますと、金高の主なるものから言います、藤波文庫(21)が十万円、田中光顕さんの御依頼で和田さんから電報で久原へ言ったが、その返事がないのですぐお冠りを曲げて岩崎へ入れたものです。
今国宝になっております「日本書紀(22)」、「尚書(23)」の古写本、「明恵上人歌集(24)」などが入っているものが支那鞄へ三十五、六ございましたが、残らず糊が剥(は)がれて何が何だか判らなくなったもので、藤波さんの方が「それでは……」というので、ついこの間亡くなられました上野竹次郎という方を傭(やと)いまして、八ヶ月かかって継ぐものは継ぎまして、出来上がったものを私の手で経師屋へ廻し完全にしました、今、岩崎文庫にございます。
東陽 藤波さんというお方はどういうお方ですか。
村口 藤波言忠(25)さんといって、有名な京都の公卿華族です。維新の後に大部分の蔵書が市中に出ましたが、文書類だけが保存され残っておった。今日の相場に致しますと十万円と五万円か判りませぬ。
(つづく)
※発言者(登場順)
村口・・・・・・村口書店 村口半次郎氏
反町・・・・・・弘文荘 反町茂雄氏
窪川・・・・・・窪川書店 窪川精治氏
光明堂・・・・・・光明堂書店 鹿島元吉氏
東・・・・・・東書店 東浅吉氏
一心堂・・・・・・一心堂書店 高林定輔氏
注
(21) 藤波文書 村口氏の記憶の誤り。藤波ではなく、広橋伯爵家旧蔵の古記録・古文書・有職故実書類の文庫。
(22) 「日本書紀」 広橋家本は巻廿二と巻廿四の二巻。平安中期写。昭和二十六年国宝に指定、のち文化庁に移る。
(23) 「尚書」 唐写本「古文尚書」残巻。
(24) 「明恵上人歌集」 上人の弟子高信編、編者自筆本。宝治二年(一二四八)の跋あり。重要文化財。
(25) 藤波言忠 明治時代の伊勢大神宮の祭主。伯爵。但しこの人と広橋家文書類とは無関係。村口氏の記憶の誤り。
村口半次郎
村口書房(東京市神田区今川小路二丁目十七〔旧地名〕)初代主人
下谷御徒町の、有名な浮世絵版画商吉金(吉田金兵衛)方で修業。吉金は版画と共に古書を販売したが、村口さんは古典籍を主とし、中年以後は浮世絵は殆ど扱わないようでした。明治三十年頃から活躍し、四十年頃から大正九年まで、大蒐書家和田維四郎の特別の受顧を受け、そのおかげで、古典籍についての知識を広くすると同時に、業界に雄飛するに十分な資財を獲得。大正末期から昭和十年頃までが全盛期でした。古典籍業界では、東西を通じて第一の実力者として、また書林定市会(後の東京古典会)の顧問(という名の会長)として、勢威を振るいました。昭和十五年一月歿。六十五歳。
※このコラムは反町茂雄編『紙魚の昔がたり』(明治大正篇)でお読みいただけます。
『紙魚の昔がたり』(明治大正篇) 関連書・『紙魚の昔がたり』(昭和篇)