• twitter
  • facebook
村口書房

岩崎文庫と和田維四郎氏【洒竹文庫及び和田維四郎氏2】


村口 和田さんのお話をしましょう。久原文庫、岩崎文庫が出来る前に和田さんのお話をしないと連絡しません。雲村さんに御懇意を頂きましたのは、明治四十年頃と覚えております。

明治三十七年から四十年にかけて、私の店で貧弱な目録を四、五回出しました。その後の目録と覚えておりますが、書生さんが来て「左内坂の和田だが目録にあるものをみんな持って来て見せてくれ」という註文、(笑声)みんなといえば、今日で申しますトラックで五台や七台はある。それをみんな持って行けないから、目録に点を付けて御註文下されば持って行くと申しましたら、あくる日、三十点程点が付いているものを、みな店に居りました水谷倉吉(19)に持たしてやりましたが、五、六点を除けてみな買って頂いた。

その後また、三十点程届けました。それが「日本書紀」、「日本政記」の薄葉摺りとか三鏡とかいう普通のものばかりで、なんでも水谷が五、七回通いました。ところが、「この位買ったら主人が一遍位挨拶に来たらどうか」という言葉で、……私はその当時から御得意へ上がることは大嫌いで決して行かないのでしたが、相当お買い下さる御客様ですし、商売ですからそのように言われると仕方がないので伺いました。

大変広い御屋敷で、その当時はまだ、和田さんという方はどういう方か少しも知りませんでしたが、お伺いしたところ「実は自分では徳川時代の印刷鮮明な本でもって家庭文庫を作りたい、それで君を呼んだのだが僕の庫を見てくれ」というお話で、拝見しました。

なかなか広くて、平屋造りでしたが高い所は梯子を掛けて本を取るようになっていて、なかなか広い。それが一間位の間は詰まっておって、後はみな空いている。

「これへ家庭文庫を作ったらどの位で上がるだろう、今、君から買ったような質のもので……」というお話で、私は「先ず四万円位なら完成しましょう、尤も一遍では困りますが」。

「それでは引き受けてやってくれ給え」と申されましたから、それからどの位かかりましたか、坊間に幾らでもある本だから、集めて出しますとじきに庫一杯になりました。四十年頃からちょうど三年位掛かりましたと思います。

それからどういう御都合でしたか、今の薬王寺町(20)へ鉄筋コンクリートで御家を拵(こしら)えて、庫へは書画・骨董を入れてしまって、文庫の本を入れる書棚を御自身の書斎の両側へ拵えた。あすこが御素人です。

私にでも御相談下さればよかったのだが、前の本を持って来たところが五分の一もはいらない。弱ってしまってその本を久原房之助さんと丸の内で会見した時に「家庭文庫用として庫一杯集めたが、ここの家へ入らないから君にやるが、貰ってくれないか」と話をされました。

(つづく)


※発言者(登場順)
村口・・・・・・村口書店 村口半次郎氏
反町・・・・・・弘文荘 反町茂雄氏
窪川・・・・・・窪川書店 窪川精治氏
光明堂・・・・・・光明堂書店 鹿島元吉氏
東・・・・・・東書店 東浅吉氏
一心堂・・・・・・一心堂書店 高林定輔氏

(19)水谷倉吉 村口書房の店員、後に独立して水谷書房を創む。昭和二十年春、空襲の猛火で重傷死。
(20)薬王寺町 和田維四郎の邸は新宿区牛込薬王寺町。


著者

村口半次郎
村口書房(東京市神田区今川小路二丁目十七〔旧地名〕)初代主人

下谷御徒町の、有名な浮世絵版画商吉金(吉田金兵衛)方で修業。吉金は版画と共に古書を販売したが、村口さんは古典籍を主とし、中年以後は浮世絵は殆ど扱わないようでした。明治三十年頃から活躍し、四十年頃から大正九年まで、大蒐書家和田維四郎の特別の受顧を受け、そのおかげで、古典籍についての知識を広くすると同時に、業界に雄飛するに十分な資財を獲得。大正末期から昭和十年頃までが全盛期でした。古典籍業界では、東西を通じて第一の実力者として、また書林定市会(後の東京古典会)の顧問(という名の会長)として、勢威を振るいました。昭和十五年一月歿。六十五歳。


※このコラムは反町茂雄編『紙魚の昔がたり』(明治大正篇)でお読みいただけます。

          

『紙魚の昔がたり』(明治大正篇)  関連書・『紙魚の昔がたり』(昭和篇)