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奈良絵本私考(反町茂雄)

奥書と商品化と 【反町茂雄「奈良絵本私考」7】

今日まで見ることを得た、恐らく1000にも近いものの内、ハッキリと年記のある最古のものは、文正元年(1466)の八幡の御本地絵1巻(弘文荘古書目第16号157参照)であります。大型の巻物、巻首3、4葉を欠いていますが、現存紙数34枚半の長巻。巻末に、左の奥書があります。

「奉寄附大日本国周防国吉敷郡○○○今八幡大菩薩御宝殿者也、施主心中求願一々皆令満足故也
于時文正元年丙戌十二月二日
施主敬白」

上の○○○の個所は、故意に削去した痕が顕著ですが、吉敷郡南部第一の大社たる秋穂村八幡宮社であることは推量に難くありません。絵は稚拙濃彩の、いわゆる古奈良絵本の手に属するもの。本文は、流布の八幡縁起が男山八幡宮の建立の記事で終わるのに対し、これはそのあとに筥崎八幡の縁起を説いた99行を附加した異本に属します。

文正元年と云えば西紀1466年で、わずかながら応仁・文明(1467-1487)に先立つもの。この種としては最古の年記でありましょう。

 

年記を示すものとしては、同じく東洋大学図書館に「松姫物語」があります。曾て赤井達郎教授が「芸術新潮」誌上で紹介されたもので、かなり濃い色彩の古朴な味の、画入の小型の絵巻で、画面の大部分を濃淡の顔料で彩った古奈良絵本であります。奥書は太目の素朴な筆蹟、楷書に近い硬い書体で、

「大永六年〈丙戌〉八月廿五日 尋貞」

としてあり、この奥書が本文と同筆か否かについては、真名と仮名の違いがあり、一は草体、一は楷書に近く、筆線に肥痩の相違もあって、議論は岐れるかも知れませんが、字体・墨色から推して同筆と考えられます。

尋貞が本文を書写したことは確かとして、挿絵も描いたかどうかは、自ずから別問題ですが、絵の質、本文との取り合せなどから見て、書画とも一筆と解してよいのではないでしょうか。尋貞の奥書の内にも、それを否定する要素は含まれておりません。

 

ここにいう奈良絵前期に属するもので、わたくしは今日まで、これ以外に見、又は調査し得た年記を持つ奈良絵本は、天理図書館の小男の草子絵巻別本のみであります。これについては、既に天理善本叢書の「古奈良絵本集1」に、岡見正雄教授の正確な解説があります。

原本について見ますと、やはり小型の絵巻、絵は濃彩且つ古拙、下手(げて)な素人絵で、奥書は、

「ひろしまにて書きうつす也
慶長十二年〈ひのとのひつし〉 二月五日」

とあり、紙質及び書画の体裁から見て、十分に信じられます。若し年記がなければ、モ少し古く推定し得べき様体であります。年記のみで、書画の作者の名はありませんが、共に素朴古拙の質から推して、恐らく書画一筆、と断定してよいでしょう。

 

試みにこの3つの明証のある古奈良絵本と、年記のない、しかしほぼ近い年代と推定されるチェスター=ビーティー蔵本とを(具体的に申せば、C・B目録No.1の武蔵坊絵縁起と松姫物語とを、又、No.2伊勢物語と小男の草子とを)くらべて見ますと、相違は顕著であります。

有年記のものは、絵も文字も古拙又は稚拙で、素人の作と見られるのに対し、無年記のものは、絵は相当以上に巧み、文字はよく整っていて、専門家の作と見られます。ニューヨークのスペンサー=コレクションの目録に例をとって見ますと、No.42屋島尼公物語・No.43小あつもり【図参照】・No.48松風村雨物語・No.47岩屋の草紙【図参照】等は、いずれも大永・天文前後の写で、「松姫物語」と近い年代の製作ですが、画質にも書質にも、松姫・小男との間に、相当の径庭があります(筆者編スペンサー=コレクション目録P21・23・24のカラー図版参照)。この4点にも奥書はありません。

わずか3つの例から、多くの結論を引き出すことは危険でありますが、何分年記のあるものはごくごく稀れ、そしてその3つが、他の数多くの古奈良絵本と、ハッキリ違った特色を持つとしたら、やはり一考の価値があるのでしょう。市古貞次先生によれば、永禄3年(1560)の年記のある奈良絵「一本菊」が存在し、木村三四吾教授のお話では、元和6年(1620)の「熊野の本地」を見られた、とのこと。それらも素人絵の古拙なものでなかろうか、と想像しております。

 

後期のもので年記を留めているのは、卑見の及ぶ範囲では延宝7年(1679)の伊勢物語絵巻の伊勢物語絵巻のみであります。大型の2巻で、本文の下絵が美しく、絵は小型ですが数多く、50面に達し、彩色鮮美、下巻末に「延宝七年霜月吉日」とした年記があります(弘文荘古書目第20号No.62参照)。

但しこれは書画の様体及び紙質・装潢等に商品臭が殆どなく、恐らく地下・公家侍あたりの閑余の手すさびになるものと想像されます。後期のもので、年記のあるものは、これ以外には全く見ません。

 

年記はないが、奥書があって、画家又は書家の名の判明するものは、各2種を確認しております。その一は東洋大学図書館蔵の「小式部」の小型竪本で、その巻末には、

「居初氏女書画」

と明記してあり、その書体は本文の文字のそれと一致し、絵も確かにそれと認定し得るもの。時代は延宝から元禄ころ。書画一体、女性的な整美なものです。他の1つは、弘文荘待賈古書目第1号No.19に解説及び写影をのせる伊勢物語絵巻であります【図参照】。

それは中型の巻子本3巻、下巻末に「右伊勢物語依所望染筆畢 藤原公尹」「右依或所望画畢 正三位基董」の2行の奥書があり、巻中には金銀朱黄等、彩色の美しい奈良絵が数十枚挿入されてあります。公尹は阿野家の支流で山本家の祖、元禄・享保中の人。基董は壬生家の分かれ、石山家の祖、ほぼ同時代で、従二位権中納言、享保19年(1734)没、63歳。狩野永納に学んで絵をよくしました。

正徳3年(1713)には基董を師香に改めておりますから、この絵巻は多分元禄末頃のものでしょう。奈良絵本としては最晩期のもので、奈良絵本の下限を示すものの一と云えましょう。

 

次ぎに筆者名の奥書のあるものとしては、スペンサー=コレクション蔵の大織冠絵巻(同目録No.105)と、筆者蔵の羅生門物語とがあり、共にその第3巻(終巻)の巻末に、

「市丞朝倉氏重賢書之」

として、下に「松田」と読める小黒印が押してあります(なお天理にも同じ奥書を持つものがあったと記憶します)。但しこれは本文の文字を書写したという意味に解すべきで、絵の筆者を示すものではないでしょう。挿絵は2つとも、写実味を加えたやや個性的な描き様の、上手の奈良絵です。前期・後期を通じて、管見の及ぶ所、これらの以外には、画家筆者の名を示すものはありません。

 

書物(巻子本も冊子も)の大部分は飛鳥・奈良朝以来、古くは自家又は近親・知人用でなければ、仏神に供養のために製作されました。平安末期以後、仏典の印刷が行なわれますが、それも主として自己の宗派用、広い意味の自家用で、販売を主目的とするものではありません。

南北朝の半ば頃から、中国より渡来のプリンターの手で、若干の漢籍(主として詩文書)類が、商品として、京都の近郊で製作されはじめましたが、戦乱と共に中絶しました。商品経済は、足利時代を通じて徐々に、しかし力強く、進展致します。奈良絵本は、商品化した書物としては、恐らく最も早いものの一だったでしょう。

印刷された書物が、完全に商品化し、大量化しますのは、寛永から以後でありますが、奈良絵本は僅かそれに先立ち、ほぼ歩みを共にしております。慶長・元和頃までは、大部分は商品として注文生産されましたが、一隅では、まだ自家用の、1種1部だけの製作が行なわれていました。八幡・松姫・小男などが恐らくその遺例で、そして自家用である故に、当時の普通の写本並みに、時に奥書が加えられた、と、その様に解釈したいのであります。

 

くどく繰り返しますと、古奈良絵本は、注文によって、画工が商品として製作したのが本流で、その故に奥書のないのが原則。松姫・小男(別本)の如きは例外的なものと考えたい。後期においては、商品生産が(本流を超えて)原則となり、追々に量産(大量生産とまでは行かないが)に向かった。職人・技工の手によって、初めから商品として造られますから、署名・年記は無かったと、そう推量しております。

因みに、上記の如く、年代や筆者について手懸かりの殆どない奈良絵本について、何らかの足掛かりを求むべく、時に古筆家の極札の類に幾分かの証を採ろうとする向きがありますが、それは多くの場合、危険を伴う営みでしょう。

試みに実例の2、3を挙げますと、スペンサー文庫蔵の屋島尼公物語、又、恋路草子絵巻(弘文荘49年三越展目録No.120)については、極札は飛鳥井一位局・一位局としてありますが、根拠はありません。チェスター=ビーティー目録No.1武蔵坊絵縁起の、土佐光弘とした箱書・極札の信じられぬことは、あれに記しました。

別に私見の範囲内(弘文荘目録所載)で、花鳥風月絵巻には勾当内侍を、ある大織冠には土佐光則を、また天神縁起に土佐光行、武家繁昌に土佐光元、八幡祭礼絵巻に土佐光茂、小落窪・貴船の本地に土佐光起と、極札を付けたものが実在しますが、何れも信ずるに足りません。別本おようのあま2冊、及び祇王物語絵巻3巻は、狩野山雪と鑑せられてあり、外に古土佐とか、十市遠忠とか、小野お通とかに見立てられているものも時々見受けます。どれも全く実証を欠いたもののみであります。

古筆家の極札・添え状の類は、本質は職業的なもの、後には営利に進んで、便宜的に有名人に振りあてたものが大部分です。実に基づくはごく僅少、真を求めたものではありません。平安・鎌倉の古写本の多くについて、殆ど常に極札がついておりますが、学問的な引用に堪えるものの稀れなことは、今日では常識でありましょう。(つづく)


■著者:反町茂雄(1901-1991)

古書籍商 弘文荘(古書肆)店主。新潟県長岡市生まれ。東京帝国大学卒業。昭和2年、26歳で神田神保町の古書店一誠堂に勤務。昭和7年独立して古書肆弘文荘を創業し、多くの善本・稀書を蔵する天理図書館の蒐書事業に関わる。著書に『定本 天理図書館の善本稀書 一古書肆の思い出』(八木書店、1982年)、『蒐書家・業界・業界人』(八木書店、1984年)、『日本の古典籍 その面白さ、その尊さ』(八木書店、1984年)、『紙魚の昔がたり 昭和篇』(編著、八木書店、1987年)、『紙魚の昔がたり 明治大正篇』(編著、八木書店、1990年)、『一古書肆の思い出』(全5巻、平凡社、1986-92年)など。反町茂雄が作成した古書の販売目録『弘文荘待賈古書目』貴重書の内容・価格がわかる貴重な書誌学の資料。ジャパンナレッジLib『Web版 弘文荘待賈古書目』で配信中。


■本コラムの初出は、反町茂雄著『本の古典籍 その面白さ その尊さ』(1984年、八木書店)です。
https://catalogue.books-yagi.co.jp/books/view/2059

「奈良絵本私考」をのせる反町茂雄『日本の古典籍』