需要層の問題 【反町茂雄「奈良絵本私考」5】
需要者がどの層だったかということは、直ちに商品の質と量に反映致します。上代及び中世前半の絵巻物とは違って、奈良絵本は、最初から大部分は商品として生産されたと考えられます。従ってここでは、誰が買ったか、という問題になります。
1)前期
前期において。先ず公家階級ではありません。これはハッキリ断定してよいでしょう。
奈良絵は、文化的・文学的な商品ですが、上代以来の伝統を尊ぶ宮廷文化、典雅を好む公卿の嗜好には縁遠いものでした。価格的にも不向きでした。
その頃の書物は、版本・写本とも高価でしたが、華美な手描きの挿絵を入れた奈良絵本は、絵巻も冊子も、どちらも、版本よりも写本よりも高直だったことは、容易に想像されます。余裕のない生活を余儀なくされていた足利末期の公卿方が、乏しい資を投ずる筈はないでしょう。
中世前半には、布教上の必要から、多くの絵巻物を製作し、又、させた富有な寺社の僧侶・神官たちは、既に多く勢力を失墜し、新たに実力を増した蓮宗・一向の宗徒たちは、一揆・争闘に明けくれていました。わずかに地方の中小の寺院が、縁起を自家の手で細々と生産するに留まった様に見えます。
総じて足利時代の文化・美術は、終始武家的な色彩で覆われていると見ることが出来ます。その中期以後に、中央の権力が地方に分散するにつれ、戦国大名が輩出して分国を支配し、武力と併せて権力・富力を壟断致します。それらの内に、中央文化を憧憬しその受入れに熱心なものの生じたことはよく知られております。
公卿の田舎下りが歓迎され、そこで和歌を教え、書道を授け、又鞠の技などを伝えました。原勝郎博士によれば、鞠は特によろこばれた、とあります。時に連歌をも共に楽しんだでしょう。宗祇等の連歌師もいたる所で歓迎されています。
都上りの地方の武士たちが、公卿方をたよりに、しきりに書物を購入したことは、実隆公記に頻出致します。その内でも、一寸有名な事件は、永正3年(1506)8月22日の条の、
「抑源氏物語愚本〈一筆書之、銘後成恩寺禅閤筆〉随分雖秘蔵之本、甲斐国其所望、黄金五枚〈代千五百疋〉出之、乞取之間、遣之」
とあるのと、享禄2年(1529)8月8日の条下の、
「鹿子木、源氏愚本所望、宗碩懇切申之間、無力遣之、可惜々々、弐千疋進之」
の2件。実隆は自筆秘蔵の源氏の揃いを、間に23年の年月を隔てて、以上の如く2部売っております。買い手は、後者の鹿子木は、肥後の武士鹿子木三河守親貞、前者は甲斐国某とありますが、当然に武士でしょう。
宗祇の弟子玄清が仲立ちした前者の値は黄金5枚、同門の宗碩の周旋による後者は2000疋、共に随分と高直。高価なればこそ世話をし、高価なればこそ手放したのであります。
天理図書館現蔵の実隆自筆の新撰莵玖波集は、曾て筆者の手に在ったもの。明応6年(1497)の成、重要文化財に指定されている極く精善の写本です。これはその奥書によれば、葦田木工助源友興という、中国辺の武士の依頼によるもの。取次ぎは、親切でことなれた宗祇ですから、十二分の礼物が実隆の邸に届いたことは確実です。
実隆公記を漫閲しても、武家との関連記事はおびただしく、その大部分は書物、又は色紙・短冊の類に関連しております。越後の上杉、奥州の伊達、能登の畠山、越前の朝倉、若狭の武田、信州の小笠原、駿河の今川、美濃の土岐、山口の大内、肥後の菊池・相良、薩摩の島津その他。実隆―宗祇・宗牧等のルートで、都において、価を惜しまず書物を購求した武士の数は、一々数え上げられないほどです。
他の日記について今ここに調査するいとまはありませんが、ほぼ近い時代の言継卿記・多聞院日記・梵舜日記等々を捜せば、更に多くの同種の実証を得ることが出来ましょう。
又現在諸家に蔵せられ、或は坊間に見られる、足利中期から同末期頃までの伊勢・源氏・古今・新古今、或は連歌及び蹴鞠道に関する古写本・伝授書の奥書を、一々実物について探究する人は、それらの内に、地方の武士の求めに応じた旨を明記してあるものが、如何に多いかに一驚を喫するでしょう。
さして豊かならぬ筆者の座右を探っても、直ちに十指を屈することが出来ます。戦国大名だけではなく、麾下の部将たち、たとえば大内家の杉・陶・阿川、上杉の神余・高梨、肥後の小代・赤星、薩摩の伊地知・新納等々、有力な陪臣なども上方での文化財の需要層、購求者であります。私は武士、特に地方の武家豪族こそ、奈良絵本の最大の顧客、購買層だったと信じております。
その頃の富有階級、たとえば地方では酒蔵・土倉の類、都ではそれらをも含む町衆などの中にも、若干の需要はあったでしょうが、その実証は決して多く在りません。ここで、ほしいままの想像を加えれば、前期の奈良絵本は、都へのぼり、堺などに立ち寄った、主として西国筋の小大名、富力のある陪臣などの土産物だったでしょう。
宗祇や宗長に依頼して、持ち下ってもらったかも知れません。その故に、内容は典雅でなく卑近。基本的な、深い教養を多く必要とはしないもの。すなわち、武家関係の物語、その一類としての舞の本、誰にも身近な求婚談・恋愛談、読んで面白い異類物のたぐいでした。
本格的な古典では、せいぜいで伊勢物語あたりまで。冊数は1巻か2巻が大部分。多くて3冊・5巻どまり。10以上の数の巻・冊は殆ど全く見られません。現存の古奈良絵本の多くが、これらの事実を証明している様に思われます。
2)後期
後期に入ると、需要層は拡大しました。新たに大名筋の大きなスケールの需要が発生したことは、すでにふれました。大名以外に、大身の旗本、或は家老階級の顧客も、相当範囲を拡げたでしょう。
寛文前後には、京・大坂・江戸の町人の富有階級が参加し、さらに地方の農村の地主階級が、新たに有力な顧客層として登場致します。農
村のそれら地主は寛永以後に勃興した富有者で、その豊かさは大体において安定的で、以後江戸時代を通じて、出版業を支える柱の1つでした。
これらの階層の参加によって、奈良絵本の内容に相当の変化が生まれまして、文正草子等の立身出世談、松竹物語・鶴亀物語以下の祝儀物、京名所絵巻の類が殖えたことは、今在る巻冊によって推量されます。それらは、殆ど例外なしに類型的な絵様で、製作期は寛文・延宝時代に多く集中しております。(つづく)
■著者:反町茂雄(1901-1991)
古書籍商 弘文荘(古書肆)店主。新潟県長岡市生まれ。東京帝国大学卒業。昭和2年、26歳で神田神保町の古書店一誠堂に勤務。昭和7年独立して古書肆弘文荘を創業し、多くの善本・稀書を蔵する天理図書館の蒐書事業に関わる。著書に『定本 天理図書館の善本稀書 一古書肆の思い出』(八木書店、1982年)、『蒐書家・業界・業界人』(八木書店、1984年)、『日本の古典籍 その面白さ、その尊さ』(八木書店、1984年)、『紙魚の昔がたり 昭和篇』(編著、八木書店、1987年)、『紙魚の昔がたり 明治大正篇』(編著、八木書店、1990年)、『一古書肆の思い出』(全5巻、平凡社、1986-92年)など。反町茂雄が作成した古書の販売目録『弘文荘待賈古書目』貴重書の内容・価格がわかる貴重な書誌学の資料。ジャパンナレッジLib『Web版 弘文荘待賈古書目』で配信中。
■本コラムの初出は、反町茂雄著『本の古典籍 その面白さ その尊さ』(1984年、八木書店)です。
https://catalogue.books-yagi.co.jp/books/view/2059