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奈良絵本私考(反町茂雄)

つくった人、描いた人たち  【反町茂雄「奈良絵本私考」4】

1)前期(寛永以前)

少々武断的ですが、結論を先に記しますと、前期(寛永以前)においては、生産者は主として京都及び堺の扇屋、後期(寛永以後)では、生産者は主として京都の新興の書籍業者(出版・販売、及び一部分古書を兼業)だったのでしょう。

執筆したのは、前期には土佐派を学んだ画師、画扇描きの技工(職人)。絵仏師の手になるものも多少はありましたでしょう。素人絵も確かにあります。後期においては、多くは書肆(新興の)に従属する技工、これには上下の段階があった様です。扇屋もつくったでしょう。土佐派の画人も描いたと推量されます。素人は殆ど描いていない様です。

以上は主として今日伝存している数多くの奈良絵本を観察しての、1つの結論であります。

 

古来、日本の画家の生活は、主として支配階級及び宗教団体に依存していました。上代から中世末まで、大体そうでした。欧州諸国でも事情はほぼ同様であります。

公家、大きな寺社、あるいは有力な武家によって、生活を保証されて来ました。15世紀中頃以後、17世紀はじめまでは、公家と寺社とは衰微して、画家を扶養する力はなく、一方、上位の武家の地位は不安定で、永続性を欠いていました。保護者を喪失した画人の日常生活は甚だ不自由で、技能の修練も怠り勝ちでした。文学・美術は、平和と豊かな物質的基盤を必要とします。絵画も例外ではありません。

この時代の土佐派の内に、金岡や鳥羽僧正や、信実・慶恩の筆技を見出せないのは当然であります。糧を得る必要に迫られた絵師たちは、下った技能を廉価に売ることを余儀なくされました。手近かにあった大きな向け口は扇絵でした。

 

扇面は当時、公家・武家を通じて、上流階級の生活の必需品で、夏はもちろん、四季を通じて用いられました。また持ち運びに便でしたから、贈答品として杉原紙などと共に盛んに使用され、公家の日記、武家の書状等に頻出します。消耗品で、需要は恒常、且つ永続的です。大部分は手描きの画扇ですから、かなり高価で、高級のものは1本20疋もしております。

その上、美麗な扇面は、この国の特産物として、海外にもかなり輸出されていますから、需要は相当に多い。製作工程は単純で、且つ小規模向きですから、窮迫の画師に、これに筆を執り、後に画工になり終わるものが少なくなかったことは、まさに然るべき所でしょう。

色紙や短冊の下絵、或は現に稀れに見られる豪華な連歌懐紙の下絵なども、この人たちの手になったでしょう。

 

既に赤井達郎教授も引用されていますが、言継卿記の永禄7年(1564)4月21日の条下に「泥絵の扇二丁に十二本出来、到」とあり、傍に「小川布袋屋」と小字で注してあります。

文中の泥絵は、当時の「扇の草紙」を見ても判りますが、濃い絵の具に泥を交ぜた、今日のいわゆる奈良絵で、小川布袋屋は、前後の文の続き合いから見て京都で、奈良とは考えにくい。も少し読み進みますと、同月22日の条に「布袋屋末広扇一本〈金墨絵〉到也」とあります。

末広扇はいわゆる中啓で、折り畳む扇、「金墨絵」とは白描の絵(筆者編チェスター=ビーティー=ライブラリー目録No.49・50、特に51の下部の絵参照)の如きであろうと想像されます。さらに23日には、

「土佐刑部大輔に申付之扇〈末広両金十疋半一本〉三本、以上四本出来、到」

と価格までハッキリ書いております。両金は表裏に金の意です。年代から推して、この土佐刑部大輔が光吉であることは確実。堺へ下る数年前に、すでに京都で、公家の注文で、1本「10疋ずつ」の価格で、画扇を描いています。

モ少し遡ったものを探しますと、実隆公記享禄2年(1529)8月2日の条下には、

「可遣大内之扇十本、土左狩野両人申付之、各五十疋手付遣之、又可遣宗茂之扇出来、代廿疋〈十疋先日遣之〉今日十疋遣之了」

の記事があります。享禄2年には、土佐の当主は光信(光吉の父)、狩野は元信、共に当代を代表する巨匠。大内は周防の大内義隆に当たります。光信も元信も、実隆の様な教養の高い、一代の貴紳から代金を受けて、画扇を描き、しかも注文と同時に、手付金として半額を受けていたことが証されます。

やや日を隔てて、8日には「土佐将監扇三本出来……」、12日には「……狩野扇、絵所(即ち光信)扇等各出来、則代物遣之」と見えております。

 

少し時代は下りますが、慶長頃の画扇の原物が、チェスター=ビーティー=ライブラリーに蔵されております。同目録41ページの図版を御参照下さい。雅楽図を描いたもので、純然たる大和絵ですが、色調は奈良絵にソックリで、古奈良絵の一類と申してもよいでしょう。

当時製作された「扇の草紙」の写本は、まれに坊間にも見かけます。これは元来は扇の見本帖だったのではないでしょうか。

又慶長頃から寛永頃にかけて、「扇の草紙」の版本が数種印行されております。扇の絵は、奈良絵にソックリです。嵯峨本の方は、用紙は五色紙、絵は無彩ですが、構図のとり方、線の運びは、奈良絵そのままと申して良いでしょう。

 

画扇から、奈良絵の絵巻・冊子までは至近の距離で、扇形の絵を長方形に書き改めれば、すぐに絵巻・冊子の挿絵に変ります。もうここに至れば、戦乱と生活困難とを避けて、堺に下った土佐派の画かきたちが、奈良絵を描かなかったと想像することは困難であります。

当時は画扇の上手(じょうず)のものは、前述の様に注文生産でしたが、画扇よりもズッとヴォリュームのある奈良絵の絵巻乃至冊子も、若干の自家用生産を別にすれば、殆ど全部注文生産と推定すべきでしょう。当時の社会状態では、後述の如く、まだ需要はそう多かったとは考えられませんので、専業者が生ずる程ではない。

大部分は片手間の仕事で、需要の多い扇絵を描きながら、色紙や短冊の下絵もデザインする、注文者があれば奈良絵本も製作する、その様な生活を想像するのが自然の様に思われます。

 

2)後期(寛永以後)

一天下に恒久的な平和をとり戻した元和・寛永(1615-1644)以後(ここにいわゆる奈良絵本後期)には、京都は急に文華のかがやきを恢復する。慶長初年以後には、古活字版による書物の多量生産が京都に集中して、急激に発展する。

新興の京都の書籍商たちは、寛永の半ば頃からは、それまでの経験によって、古活字版よりは、むしろ整版を以て、営業上便宜、採算上有利、との判断に到達したらしく、整版が急増する半面、活字版の刊行は激減し、僅々10年ほどの間に、両者の優位は転換します。

正保(1644-1648)以後は、後者は出版界から殆ど姿を消します。200年ぶりに、永続する平和に恵まれた全国では、物資の生産は大きく伸び、交通は便を加え、読書人口は、月を追い年を逐って増加する。

書物の売れ行きは爆発的に拡大し、元和末・寛永初には、中野・村上・風月等、十指を屈し得るかに留まった書肆は、寛文(1661-1673)ころには200軒前後にも達し、書籍業界は急成長します。

 

奈良絵本に対する需要も増大しました。伊勢・竹取、あるいは文正・七夕など、さらに十二ヶ月草子などの様な、平均して需要の多い奈良絵本は、書肆の出資で、5部、10部、20部と、先々の売れ行きを見越して、商品生産(いくらか大量に)されるようになりました。

その範囲は漸を追って広がりますが、並行する注文生産の部門も盛行し、種類は殖え、数は増します。時あたかも寛永から元禄頃までの間は、幕府を筆頭に、有志の大名たちの蒐書が流行した時代で、飯田の脇坂安元、島原の松平忠房、加賀の前田綱紀、磐城平の内藤風虎、徳川光圀等の蒐集が今日にも伝えられて残っております。

それらは、京都で出版される版本を購入するのと歩調を合せて、公家の名族、或は古寺大社に乞うて、しきりに古書の新写に努力しております。勢いの及ぶところ、子女婚嫁の際の必要諸道具の一として、古典の華麗な絵入本を持参することが流行して、源氏の54帖、平家の30巻仕立(分巻)などの、前期には到底見られぬ大きなセットが、善美をつくして生産販売されるに至りました。

現在全国に散在し、又坊間に出現し、時には国外でも見られる、奈良絵本の総数は、恐らく3000乃至5000にも達するでしょう。筆者のこの半世紀間に属目するところだけで800乃至1000に近く、購得して調査したものも300種を超えます。それらの量及び質を綜合判断すれば、寛文時代に奈良絵本は全盛期を迎えたと断定してよい。その一端は、私のチェスター=ビーティーの目録にも見られます。

但しここでも盛期は永続せず、すでに延宝(1673-1681)ころから、ユックリとした歩調で下降の途をたどり、貞享から元禄(1684-1704)のはじめにかけて、漸次に衰歩を速めました。元禄半ば頃から急転直下、10年ほどの間に殆ど跡を断つにいたった状況は、寛永後半期の古活字版消滅の過程と似ております。

この間の生産者は、新興の京都の書肆だったでしょう。実際に書き又描いたのは、前期から引続いて扇絵の画工と並んで、大書肆に従属する奈良絵専門の技工・職人だったでしょう。数人で素朴な工房を組織していたろうとも想像されます。(つづく)


■著者:反町茂雄(1901-1991)

古書籍商 弘文荘(古書肆)店主。新潟県長岡市生まれ。東京帝国大学卒業。昭和2年、26歳で神田神保町の古書店一誠堂に勤務。昭和7年独立して古書肆弘文荘を創業し、多くの善本・稀書を蔵する天理図書館の蒐書事業に関わる。著書に『定本 天理図書館の善本稀書 一古書肆の思い出』(八木書店、1982年)、『蒐書家・業界・業界人』(八木書店、1984年)、『日本の古典籍 その面白さ、その尊さ』(八木書店、1984年)、『紙魚の昔がたり 昭和篇』(編著、八木書店、1987年)、『紙魚の昔がたり 明治大正篇』(編著、八木書店、1990年)、『一古書肆の思い出』(全5巻、平凡社、1986-92年)など。反町茂雄が作成した古書の販売目録『弘文荘待賈古書目』貴重書の内容・価格がわかる貴重な書誌学の資料。ジャパンナレッジLib『Web版 弘文荘待賈古書目』で配信中。


■本コラムの初出は、反町茂雄著『本の古典籍 その面白さ その尊さ』(1984年、八木書店)です。
https://catalogue.books-yagi.co.jp/books/view/2059

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