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古書通信

中野好夫の翻訳書【日本古書通信 編集長だより32】

「日本古書通信」10月号に、中野好夫の翻訳書と編集書の著作目録を掲載する。所蔵書を基本にある程度完備出来るかと考えていたが、作り始めると未知の翻訳書が何点も発覚し、とても完全な目録には及ばないことを自覚した。手を尽くしたが、スペースの関係もあり今回は抄録ということにした。
作成を難しくしたのは、同一の翻訳が何度も出版社や版を変えて復刊され、あるいは本来3冊本として刊行された文庫本が後に2冊本に改版されたり、同じものでも版元が変わる時に書名を変更するという複雑さがある。翻訳でなく著作の場合は版権の関係もあり同じ本が別の版元から復刊されることは、文庫化の場合を除けば少ない。その点、翻訳書は元著作権と翻訳権があるから、版権は相対的に弱くなり、いくつもの同じ訳文の本が出るという現象を生むのかもしれない。
中野好夫の翻訳の中で、多くの版を持つということでは、サマセット・モームの『月と六ペンス』と、ジョナサン・スウィフトの『ガリヴァー旅行記』だろう。今回の著作目録であげた各種の版は以下の通りだ。

『月と六ペンス』
昭和15年 中央公論社 現代世界文学叢書2
昭和25年 三笠書房
昭和27年 三笠書房 普及版モーム選集1
昭和28年 新潮社 現代世界文学全集14
昭和31年 新潮社 サマセット・モーム全集5
昭和34年 新潮文庫
昭和40年 中央公論社 世界の文学40
昭和45年 講談社 世界文学全集40
『ガリヴァー旅行記』
昭和15年 弘文堂 世界文庫
昭和22年 壮文社
昭和25年 筑摩書房
昭和26年 岩波書店 岩波少年文庫
昭和26年 新潮文庫
昭和28年 白水社 白水社世界名作選
昭和32年 河出書房新社 世界文学全集第三期四
昭和49年 筑摩書房 筑摩世界文学大系20
昭和56年 集英社 集英社世界文学全集10
平成6年 中央公論社 新選世界の文学36‐6
これでも遺漏があるかもしれない。『ガリヴァー旅行記』など、同じ年に岩波と新潮から刊行されている。
以前、ゾラの『ナナ』の翻訳で、新潮文庫宇高伸一訳と三好達治訳春陽堂世界名作文庫が、全く同じ翻訳でほとんど同時期に二つの版元から刊行されたことを知り驚いたことがある。これは以前に『ナナ』の英語版からの翻訳を宇高がしていたが、仏文からの翻訳ができないため三好が下訳をした。ところが、当時三好は結婚のためお金が必要になったようで、そんな事情が不思議な現象を引き起こしたようだった。三好訳『ナナ』は三笠書房版など何種もあるが、春陽堂世界名作文庫は出ていることは確かでも珍品で未だ入手していない。きっと再版は流石にためらわれ、初版のみで発行部数が少ないのだろう。
今、『月と六ペンス』中央公論社「現代世界文学叢書」と『ガリヴァ旅行記』弘文堂「世界文庫」の奥付を見ると、著作権の記述がない。モームが『月と六ペンス』を刊行したのは1919年である。当時日本は翻訳にからむベルヌ条約に加盟していたが、日本は特例で10年留保という権利を保持しており、原著の刊行後10年間正式な契約の下に翻訳がされていなければ、翻訳権は消滅し自由に出版出来た。昭和15年は1940年だからモームに著作権料を払う必要がなかった。但し問題がある。アメリカはベルヌ条約に加盟しておらず、イギリスとアメリカでモームの本が刊行されていれば、イギリスで原著が刊行されてから10年間翻訳がなくても、アメリカの本によって翻訳権は生ずる。だが、日本とアメリカは二国間で明治39年以降相互に翻訳自由の条約を結んでいたので、戦前は自由に翻訳が出来、割合多くの本が翻訳される。それが昭和27年の対日平和条約の発効と共に消滅して、翻訳権が生じることになった。昭和27年まで、三笠書房からモームの本が重ねて刊行されていたのはその事情と関係するのかもしれない。
また、世界文学全集を冠するような場合はセットでの契約というようなこともあったらしいと、翻訳書に詳しい蓜島亙さんが教えてくれた。海外書の翻訳出版業務を引き受けるエージェントもある。中野の翻訳書の奥付にタトル商会のクレジットが入った本があった。
『ガリヴァー旅行記』は1726年刊行、著者ジョナサン・スウィフトも1745年に死亡しているから著作権も翻訳権も問題なしだ。だが前記のように、ほぼ同時に別の版元から出るというのは別の問題である。岩波と新潮の翻訳文を比較すると、岩波は「少年文庫」ということで、新潮文庫と訳文が違う。新潮文庫で第三篇の最初の「ラピュタ」の冒頭を比較すると、
新潮文庫 「帰宅して十日と経たないうちに、コーンウォール生れでウィリアム・ロビンソンという船長が訪ねてきた。」
岩波少年文庫 「家に帰って十日もたたないうちに、コーンウォール生まれで、ウィリアム・ロビンソンという船長が訪ねて来ました。」(『続ガリヴァー旅行記』)
新潮文庫の翻訳文は、「あとがき」も含めて、昭和15年の弘文社世界文庫版と同じである。違いは判型と、ずっと後の重版の「あとがき」の最後に2行「なお、訳者は近く別にスウィフト小伝を公にするつもりである。併せ読んでいただければ幸いである」と、岩波新書『スウィフト考』(昭和44年)に触れているだけだ。文庫初版は昭和26年だから、かなり後の追記だろう。因みに所蔵は昭和55年4月の45刷で、『スウィフト考』が出てから10年以上たっているので少しおかしい。昭和28年の「白水社世界名作選」は新潮文庫と「あとがき」も含め全て同じである。
「岩波少年文庫」用の翻訳文は、新たに訳し直したというよりは、元の訳文を子供向きに語りかけるような文体に書き直したのだろう。内容的に子供向きでないところは省略したと「まえがき」に書いている。
私には『ガリヴァー旅行記』の英文原本と中野訳を比較して評価できる力はないが、他の翻訳も含め、日本語として違和感なく読める文体であることは確かである。それが広く長く読まれ続けた要因であろう。
著書目録は、いわば著者の年譜で著作活動を年を追って見ることが出来るようにするものだ。しかし、翻訳書目録は、復刊や改版、あるいは単行本の文庫化や全集への再録ということが多く、必ずしも著者の執筆年譜とは言い切れない面がある。敢えて言えば受容史かもしれない。
前記の『ガリヴァー旅行記』のように、同書名でも訳文の違いがあればそこまで翻訳書目録には記述する必要があるのかもしれない。
(樽見博)