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古書通信

少年二宮金次郎像の変容【日本古書通信 編集長だより27】

昨年の「日本古書通信」10月号に「二宮金次郎伝について」を執筆したが、その後も様々な文献が集まってきて、興味が尽きない。中でも、日本文化研究センターの井上章一氏が、かつて小学校によくあった「負薪読書」二宮金次郎像の原型である幸田露伴『二宮尊徳翁』(明治24)の小林永興の折り込み口絵の参考図が、ジョン・バンヤン『天路歴程』の荷を負い手に杖と聖書を持つ「基督者」の表紙絵(ホワイト訳・基督教書類会社・第三版)であると推測し、同時に明治初期に邦訳された『天路歴程』各版の図版も数点あげている(『ノスタルジック・アイドル二宮金次郎』新宿書房・1989。あるいは、日文研叢書16集「日本人の労働と遊び・歴史と現状」収録第九章「勤労と勉学の図像学―二宮金次郎像の盛衰をめぐって」)。
二宮金次郎像の原型が露伴『二宮尊徳翁』の口絵であると初めに指摘したのは、建築史の藤森照信氏であると井上氏は書いている。しかし、さらにその参考図が『天路歴程』であるという井上説の確実な証拠は提示されておらず、あくまでも推測に過ぎないようだ。重い荷物を背負い、歩きながら読書するという像が象徴するのは、生きていく上での困難や辛い労働(荷)、その中でも勉学の奨励(読書)、翻って社会的な自己意識を持って生きることの意義を表したものであろう(『天路歴程』の「基督者」が持つ「聖書」は別の意味があるのだろう)。金次郎の場合は少年であることも考慮される必要がある。井上氏の他にも、永興が狩野派の画家であることから、斎藤兼著『狩野派大観』に収められた狩野元信の「朱買臣図」を参考にしたのではないかという説をあげる方もいる。それぞれ面白いと思うが、前記したような象徴的な意味を持つもの故に、参考図があったというよりも、偶然似た絵が多く生まれたと考えるほうが自然だと私は考える。勿論これも推測の域は出ない点では同じである。

ところで、『天路歴程』の挿図は各版比較してみると大変面白い。本文から画家が連想する映像は一様ではないが、『天路歴程』の基督者は、例えば池亮吉訳では「身には襤褸を纏ひたるが、大きやかなる重荷を背負ひ、手に一巻の書物を持ち、己が家に背面きて立てるを見たり。我つらつら打ち眺めしに、其の人やがて彼の書物を開きて之を読み,且つ読みては身を震はせ、また潜然と打ち泣きしが、さては最ど耐へ難くなり増りて、さも悲しげなる声を放ち、「我れ何をなすべきか」と叫ぶを見たり」といった感じで、落魄者のイメージである。明治初期・中期の邦訳の挿絵も、日本人が独自に描いたものと、原本の挿図をアレンジしたものとあるが、井上氏が挙げるホワイト訳三版の表紙絵は若者の姿であり、疲れ思い悩む人物には見えない。今回、崇文荘書店で、1901年ロンドン刊行の小型二冊本『The Pilgrim’s Progress』を見せて頂いたが、そのエドモンド・J・サリバン描く「基督者」は凄い迫力である。本文の表現にどちらが近いかは瞭然である。

金次郎「負薪読書」図もヴァリエーション豊富だが、いずれも向上心と希望に満ちた姿で、『天路歴程』の「基督者」とは真逆である。『二宮尊徳翁』の元となった富田高慶の『報徳記』には「採薪の往返にも大学の書を懐にしてこれを途中歩みながら之を誦し少しも怠ず。之先生聖賢の学の初なり。道路高音にこれを誦読するが故に人々怪しみ狂児を以て之を目するものあり」と記しており、通常の金次郎像のように歩きながら読んでいるとは言い切れない。「誦読」は「節をつけて読む」あるいは「そらよみ」ということだから「暗誦」しているか、もしくは「暗誦」しながら時に本を開いて確かめる程度であろう。それを露伴は「人と生まれて聖賢の道も知らずに過ぎなむは口惜きことのかぎりなりと、僅に得たる大学の書を懐中に常離さず薪伐る山路の往返歩みながらに読まれける心掛こそ尊けれ」とした。後の多くの尊徳伝が『報徳記』を基にしているので、この場面は必ずあるが、全てが「負薪読書」ではなく、薪束に座って読書している図もある。読書との関連では、母を囲む三人の兄弟の中でまだ幼い金次郎が本を手にしている図もある(武者小路実篤『二宮尊徳』)し、米を搗く臼の周りを一回廻るたびに本を読む、いわゆる「ぐるり一遍」図や、縄を綯いながら読書する図もある。初学者の勉強が、「読書百遍意自ずから通ず」に基礎を置いた素読である以上、金次郎の歩きながらの「読書」は「暗誦」であったとするのが自然だろう。だが、金次郎読書像の意味するところは、学問による自意識の確立にあるわけだから、『報徳記』の記述に忠実でなくても問題はない。『報徳記』のままに描くとすればよそ眼には「狂児」の言葉が示すどこか異態な少年の姿に描くことになる。『報徳記』の記述自体が真実であるとは限らない。子供向けに描かれた金次郎の「負薪読書」像は一様に可愛い少年だが、背の薪(柴)は町で売るためであれば、恐らく前かがみになるような大荷物であった筈で、読書は案外、薪を売りつくした後のことかもしれない。小田原の町から帰路につく頃は暗くて本など読めない。一人歩く寂しさに耐えるため大声を出して「大学」を「暗誦」していたのかという想像すら出来る。露伴が「僅かに得たる大学の書」というのも、父利右衛門は学問好きだったようだから、貧しくとも二、三冊の書物は持っていたかもしれない。金次郎が小田原の書店で購入したというよりは現実味がある。小田原の古書店高野書店さんに、江戸期に小田原に本屋が存在したか聞いたら文房具店は江戸初期からあったが、本屋の記録は確認出来ていないとのことだった。佐々井信太郎の『二宮尊徳伝』(昭和10、日本評論社)に、金次郎所蔵「大学」の「序」末尾と本文巻頭の見開き写真が出ている。当時書入れの残る金次郎旧蔵の「大学」が子孫の家に保管されているとも記している。現在も所蔵されているのか確かめていないが、この写真だけではどの版か調べようがない。私蔵の「大学」二種とは別の版である。江戸末期に出ていた「大学」の版は数多く、ネットで調べられる限りで同版は特定出来ていない。まだしばらく金次郎探索は続けることになりそうだ。

写真は、幸田露伴『二宮尊徳翁』(明治24・博文館)口絵(小林永興画)、ホワイト訳『天路歴程』第三版表紙(明治22・基督教書類会社)表紙、1901年・ロンドン刊『The Pilgrim’s Progress』の挿絵(エドモンド・J・サリバン画)、高橋省三著『二宮金次郎』表紙(明治27、学齢館、国会図書館所蔵)、大木雄二著『二宮金次郎』表紙(黒崎義介画・昭和16、金の星社)。
(樽見博)