• twitter
  • facebook
古書通信

『世界文学』の伊吹武彦「編輯者のことば」【日本古書通信 編集長だより25】


かつて、翻訳文学書は古書業界の人気アイテムで、文庫本でしか読めない作品とか、著名作家や詩人による翻訳書は割合高額で販売されたものだ。東大とか京大の欧米文学研究者の著書も持て囃された時代があったが、もう二十年以上前の事で、今や古書価は下がる一方だ。海外の思想書も文学程ではないが人気が高いとは言い難いだろう。本誌連載の小田光雄さんの『古書店散策』でもその点は良く指摘されている。これは海外の新しい思潮の紹介だけではマスコミ、研究界で受け入れられないほど日本文化が世界水準になった為か、日本独自のものでなければ実情に添わないのか、あるいはもっと経済的な問題が裏にあるのかも知れない。博物館や美術館の展覧会も、最近では薬師寺展とか運慶展など国内文化を取り上げてブームになったものが多いことを考えると、全てに亘って内向きであることは確かなようだ。
日本ばかりでなく世界的に見ても、20世紀後半から21世紀に生み出された文学作品で、19世紀後半から20世紀前半のものを超える作品、あるいは作家がいるだろうか。トルストイやドストエフスキー、ジッド、ヴァレリー、リルケ、ポウ、スタインベック、ヘミングウエイ、等々に匹敵する作家、詩人。日本でいえば漱石、鴎外、谷崎、白秋、朔太郎に伍して戦後活躍した作家、詩人がいるかと言えば「否」と答えるしかない。三島、大江、村上文学は世界的ではあるが、漱石のように100年後日本で読まれているか。これは世界的な傾向であるという事も注意して良いと思う。文字に変わって映像が情報伝達に占める割合を増やした故とも言われるが、その理由や背景を指摘するのは研究者の仕事だ。ただ、古書界で翻訳物が振るわないのは端的に一般の関心が薄いからだろう。
20世紀西洋文学や思想が怒涛のように押し寄せたのは終戦後であった。その中で共に短い期間であったが、海外事情の普及に貢献した雑誌に『世界文学』(世界文学社・昭和21年4月~25年3月、38冊)と『ヨーロッパ』(鎌倉文庫・昭和22年5月~23年12月、14冊)がある。フランス文学を中心に欧米文学全般を翻訳紹介、あるいは織田作之助が「夫婦善哉後日」や「ジュリアン・ソレル」を執筆、坂口安吾、高見順、三島由紀夫も寄稿するなど、日本の文学状況にも気を配った『世界文学』と、実存主義を中心にヨーロッパ文学・思想の翻訳のみに特化した『ヨーロッパ』と違いがあるが、共に戦後復興期の日本文化再建へ向ける熱い情熱が伝わってくる点では共通している。
『世界文学』は、このコラムや本誌上で取り上げてきた戦中・戦後の雑誌『学海』(秋田屋・京都)や『玄想』(養徳社・奈良)と同じように関西で刊行されたもので、旧制三高・京都大学人脈を母体としている点でも共通している。しかし、編集に旧制三高・東大仏文出身で三高・京大に奉職した伊吹武彦があたったことで、関西だけでなく東大人脈をも取り込めたことが雑誌に幅と奥行きを与えたようだ。
伊吹は第2号から毎号、「編輯者のことば」を書いているが、そこからは当時の海外文学・思想導入の背景や時代世相を読み取ることが出来る。これらは伊吹の著書には収められていないと思う。手持ちは揃いではないが、22年10月発行の14号まで号を追ってその一部を紹介したい。『ヨーロッパ』にはジッドやマルローの翻訳で知られる小松清が関係していたのではないかと私は考えているが、この雑誌には「編集後記」に当たるものが無いので、比較出来ないのが残念である。
『世界文学』編輯者のことば(伊吹武彦署名)
2号(昭和21年6月)われわれが雑誌『世界文学』で意図するものも正に血液賦活の大業である。われわれは徒らにアカデミズムの高踏を希ふものではない、さればといつてスノビズムの低俗はわれわれの最も忌むところである。新しいものに常に敏感であると共に古典の精髄もまたわれわれは求めてやまぬ。アメリカ文学の最前衛を収録すると共にフランス古典の清澄を慕ひ、エリザベス朝に想ひを馳せる。要はただ、世界各国を通じてわれわれの血液を豊かならしむもの――人間性ただ一筋につながらうと願ふばかりである。
3号(昭和21年7月)本号にはイギリス、フランス、ドイツそのほか、イタリア、スペイン、中国、日本の女流の娟を競はしめた。(略)ここに収録された数編の創作によつて、文学に気を吐く女流の幾人かを紹介し、且はまた、女性のもつ可能性――自ら女性たることを否定する可能性をも含めて――の数かず、さては女性の限界などの問題に、多少の手がかりを提供しようとした。
4号(昭和21年8月)コポーの『ヴィユ・コロンビニ座』を訳された吉村道夫氏は早大仏文科出身、関西日仏学館に教授たること六年、昭和十九年に応召して中支に転戦、本年二月十五日、惜しくも病を得て岳州に仆れた人である。享年三十六。氏の遺稿を本号にかかげたのも実はこの優秀な仏文学者の死を限りなく悼むこころからであつた。なほ同氏の訳になるジロードゥー作『波の女』は近く文学座によつて上演される筈である。
5号(昭和21年9月)青春に捧げる本号はおもにこの悲劇的な人々――具体的にいへば二十歳から二十五歳までの青年をそれとなく頭にゑがきつつ編輯された。座談会に招いた学生諸君もおよそその年代の人々であつた。バンダ(ジュリアン)の『一知性人の青春』も、ボルシェ(フランソワ)の『蕩児』も、特異な知性人、特異な一詩人の、およそその年代の記録であり、ルナン(エルネスト)の講演「青春と人生」もまたその年頃の青年を前になされたものである。(カッコ内筆者)
6号(昭和21年10月)文学はとりわけ異質のものを摂取し消化することによつて強壮となる。異質のものとは、先づ第一に外国の文学である。風土を異にする文学は、移植されて或はそのまま立枯れとなり、或は時に絶妙の花をひらく――われわれが待望するのはまさに花である。
6号 本号に紹介したサルトルの文学(「水いらず」)は、アメリカ文学――フォークナー特にドス・パソスの強い影響を受けてゐる。この作品はフランス文学伝統の繊細な心理解剖の線にそひつつ、しかもフランス文学にとつて一つの新しい描法を生んだものといふことが出来よう。これはサルトル戦前の作品であるが、われわれは近く、彼の新作を紹介することによつて、文学交流の真義を一層明かにしたいと望んでゐる。
7号(昭和21年11月)人間は「考へる葦」だ―などと、今更パスカルの言葉を引いて開き直るまでもない。長いあひだ考へることを封じられてゐるわれわれである。もうそろそろ、まじめにものを考へてよい頃であらう。まじめに考へて袋路へ突き当つたら、そこからやがて人間再生の契機が生まれる。袋路までも行きつかないで、入口でうろうろしてゐるのが、日本文学の現状である。
10号(昭和22年5月)翻訳権の問題が新たにおこつて、従来のやうに、日本の出版社が日本の内務省へ供託金ををさめ、一方的に――つまり原著者や原出版者とは無関係に――翻訳することはできなくなつた。かういふ一方的な便法は、まだ外国との連絡が不十分だつた敗戦直後の現象で、今となつてはもう通用しない。今はやはり正面から、獲得すべきものは然るべき手続をふんで獲得するといふ段階に達したわけである。これは日本が「閉された」国からだんだん「開かれた」国へと移行する一つの証拠である。外国文学を移植するといふ文学的活動も、すでに国内的な仕事にとどまらず、世界との聯関においてのみ成立するといふことになつたのである。サルトルの言葉ではないが、「人間は世界のあらゆる点と結ばれた」実在である。
14号(昭和22年10月)雑誌『世界文学』が最初から心がけて来たことも、敢ていうなら文学を通じてユネスコ精神を人々のこころに芽ばえさせようというにあつた。今まで成しとげた仕事は小さいけれども、心のなかに戦争の防壁をつくるというような仕事は、小さい仕事をみんなが力をあわせてするものでなければ、とうてい成就するものではない。平和の鳩をかいた旗じるしを先頭にデモ行進をするのは易しいが、そんなところにヒューマニズムの真精神が生まれるのではない。幟や旗を否定するのがヒューマニズムである。
伊吹武彦の「編輯者のことば」は手持ちでは33号(昭和24年6月)まであり、37号(昭和25年1月)にはない。33号では当時訃報が伝えられたメーテルリンクを1頁使い追悼している。自身は『世界文学』誌上に特別多く寄稿しているわけではない。座談会には参加しているが、他の著者への原稿依頼と、この編集後記に傾注したのだろう。
未所持の9号(昭和22年4月)に「サルトルの世界観」を寄稿している。これは翌年12月に月曜書房から刊行された『J・P・サルトル』(現代フランス作家叢書)に森有正、白井浩司、小松清などの論と共に収録されている。伊吹武彦に著書は多いが、エッセイ集は昭和23年にカホリ書房から刊行された『人間像を索めて』と、昭和33年の『ベレー横町』(中外書房)だけかもしれない。敗戦から70年を経た今日、また改めて考えてよいテーマが伊吹の当時の言葉の中にあるように思える。
(樽見博)