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古書通信

芭蕉師走の一句と朔太郎【日本古書通信 編集長だより23】


芭蕉、四十六歳元禄二年師走の句に
  何にこの師走の町へ行く鴉
という句がある。今栄蔵著『芭蕉年譜大成』(平成6年、角川書店)によれば、元禄二年十二月大津・膳所滞在中の四句の一つ、同三年一月二日荷兮宛書簡中の二句の一つ、同三年一月十七日万菊丸宛の書簡中の六句中の一句として挙げられている。成書への初集録は『花摘』(元禄三年)である。
 万菊丸宛書簡は、音信不通となっている杜国を心配した心情溢れる内容で胸を打つ。名古屋の富裕な米商杜国は、貞享二年、信任を得ていた藩主の御蔵米に関し国禁の思惑売買をして伊良子へ追放の身となっていた。同四年十一月、芭蕉は越人を誘い落魄の杜国を訪うている。その折の模様を、故大礒義雄先生が当社の豆本『俳人のいる風景』(平成9)で描いておられる。岡崎在住の先生の心の籠った名編であった。万菊丸への書簡はその後の杜国をおもってのもので、収められた六句はいずれも名句である。
 菰をきて誰人います花の春
 初時雨猿も小蓑をほしげなり
 初雪に兎の皮の髭つくれ
 雪かなしいつ大仏の瓦葺き
 長嘯の墓もめぐるか鉢たたき
万菊丸宛書簡に「拙者も霜月末南都祭礼見物して」とあるから、大仏の句は、その折の句である。加藤楸邨の芭蕉全句評釈(『芭蕉講座』第二巻発句篇・昭和三十一年改訂版)によれば、この句は初案で、後に「初雪やいつ大仏の柱立」と改められた。「奈良東大寺大仏殿は治承四年平重衡の兵火に罹り、後俊乗坊重源の手で再建せられたのであるが、戦国の末、松永久秀の兵火に逢ひ、殿は焼亡し、大仏のみが露座してゐた。後、龍松院が再建を志して勧化に力め、芭蕉の詣でた頃は、貞享五年の釿始の間もない頃であるから、まだ露仏であった訳である。柱立はその後はるかに遅れて、元禄十年であった」とある。今見る殿中の大仏は巨大で威厳に満ちているが、天が下の大仏は、案外もっと身近な感じだったのではないだろうか。芭蕉の句からそんな感想も湧く。
 ところで、前述の「何にこの師走の町へ行く鴉」について、萩原朔太郎が通常の俳人や俳諧研究者では思いもよらない解釈をしている。雑誌『コギト』昭和10年11月号(第四巻十一号)の「芭蕉特輯」掲載の「芭蕉私見」である。朔太郎と言えば、蕪村の「北寿老仙を悼む」を明治年代の新体詩の先駆として高く評価したように、蕪村党のイメージが強いが、この芭蕉十八句を評釈した「芭蕉私見」も見逃せない。この小論は発表間もなく、第一書房の『郷愁の詩人與謝蕪村』(昭和11年3月)に収められた。その取り上げた十八句の中に「師走の鴉」と「大仏」の二句が入っている。朔太郎は初案の方の「大仏」の評釈で「天を摩する巨像のやうな大仏殿。その屋根にちらちらと雪が降つてゐるのである。このイメーヂは妙に悲しく、果敢なく侘しい思ひを感じさせる。芭蕉俳句の中で、最もイマヂスチックな特色をもつた句である」としている。時代考証に欠ける解釈なわけだが、近代人の目は大仏よりもそれを覆う大仏殿に圧倒されているという、案外見逃している点を逆に感じさせる解釈かもしれない。
 「師走の鴉」の朔太郎の評釈は以下のようなものである。
   年暮れて冬寒く、群鴉何の行く所ぞ。この句を読む毎に、自分はニイチエの有名な抒情詩を思ひ出す。
   鴉等は泣き叫び

   翼を切りて町へ飛び行く。
   やがては雪も降り来らむ
   今なほ家郷あるものは幸ひなるかな
    ニイチエと同じやうに、魂の家郷を持たなかつた芭蕉。永遠の漂泊者であつた芭蕉の悲しみは、実にこの俳句によく尽されてゐる。

  このニイチェの詩は、「寂廖」と題された1884年秋の作品の第一聯で、朔太郎は、生田長江訳の『ニーチエ全集』第九編「偶像の薄明」(新潮社・大正十五年)で読んだと思われる。三聯二十行の詩で、以下のように続く。若き畏友配島亙さんが原本を調べてくれた。
   今汝は凝然として立ち、
   嗚呼、背後を眺めてあり= 如何に久しきかなー
   如何なる愚者なれば、なんぢ、
   冬にさきだちて世界に逃げ込まむとはするぞ=

   世界は、無言にして冷かなる
   幾千の沙漠への門戸=
   汝の失ひし物を失ひし者は、
   何処にも停留することなし。
   
   今汝は冬の旅路へと宿命づけられて、
   色蒼ざめて立てるかな、
   つねにより冷たき天を求むる
   かの煙の如くにも。

   飛べ、鳥よ、汝の歌を
   沙漠の鳥のきいきい声に歌へかしー
   汝愚者、汝の血の色の出づる心臓を
   氷と侮蔑との中にかくせよかしー

   鴉等は鳴き叫び、
   風を切りて町へ飛び行く。
   間もなく雪も降り来らむ――
   家郷なき者は禍なるかな

 この句を「読むたびにニイチエの詩を思い出す」ということは、句よりも前に詩を知っていたということであろう。この詩への共感が句の理解を深めたと考えて良いと思う。それにしても何と二人の詩人・哲学者の感覚の共通していることだろう。この句を芭蕉は四十六歳で、ニイチェの詩は四十歳、朔太郎は五十歳の感想である。
 ちなみに楸邨の解釈は「師走の市に飛ぶ烏を厭ふといふよりは、その烏によつて、自分の心のいつしか師走の市に惹かれてゐる心を咎める口吻のやうに感ずる。清閑を求め、孤独に住しながら、師走の市の人の動きを見るとやはりいつか心うごかしてゐる自分を見てゐる目である」と書いている。他の俳人・研究者もほぼ同様の解釈をしている。何が正解ということもないであろうが、ニイチェの詩の題名が「寂廖」とあるだけでも、朔太郎の読みに私は共感を覚える。
 なお、朔太郎は昭和11年1月、『俳句研究』第三巻一号の「芭蕉特輯」にも、「芭蕉について」を寄稿している。「芭蕉私見」同様芭蕉の十五句の評釈を試みている。「芭蕉私見」とほぼ重なるが、
  死にもせぬ旅寝の果よ秋の暮
  枯枝に鴉の止まりけり秋の暮
  から鮭も空也の痩も寒の内
の三句だけあらたに取り上げている。「曠野の果に行きくれても、芭蕉はその「寂しをり」の杖を離さなかつた。枯枝に止つた一羽の烏は、彼の心の映像であり、ふと止り木に足を留めた、漂泊者の黒い凍りつたイメーヂだつた。」と書いている。黒い漂泊者の思い、朔太郎の芭蕉観はこの語に尽きるのであろう。(樽見博)