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古書通信

沖縄・末吉麦門冬の俳句【日本古書通信 編集長だより22】

 昨年本誌8月号に、沖縄の新城栄徳さんが「バジルホール来琉200周年 来琉記を平和のサチバイ(先駆)に」をご寄稿下さった折、新城さんのお仕事の中に、明治大正期の沖縄のジャーナリストで俳人でもあった末吉麦門冬(1885~1924)に関するものがあるのを知った。新城さんが編集発行する「琉文手帖」2号(1984)が『文人・末吉麦門冬-没後60年』で、麦門冬のアルバムと文章が掲載され、巻末には琉球大学の伊佐眞一氏による解説と、著作目録が収められている。文庫判60頁のいわばパンフレットで、収録されたのは麦門冬の文藻の極々一部であり、俳句作品は、表紙裏に不鮮明な麦門冬の写真にかぶせるように、第一回子規忌句会の折の「糸瓜忌や叱咤に洩れし人ばかり」(明治41年9月)と、碧梧桐風の文字で書かれた短冊「松山うれしと登りつめ海を見た里」が扉に紹介されたのみであった。
 伊佐氏作成の著作目録によれば、麦門冬は「文庫」「スバル」「ホトトギス」に俳句を投句しており、殊に「ホトトギス」には明治42年から亡くなる直前の大正12年3月まで投句していることが分かる。ただ殆どが一句掲載だから一般投句者で、雑詠巻頭を飾るような俳人ではなかったようだ。しかし、沖縄近代俳句史においては、「沖縄毎日新聞」俳句欄の選者また俳人として大きな足跡を残したと言われている。麦門冬の著作集は弟の末吉安久氏が一度企画したようだが、沖縄の明治・大正期の新聞や雑誌が殆ど伝存せず未刊に終っている。明治・大正期の沖縄の俳句がどのようなものであったか興味深いのだが、調べる術はないものと諦めていた。
 ところが最近、法政大学沖縄文化研究所が「沖縄研究資料」25、26として『沖縄近代俳句集成』Ⅰ・Ⅱを刊行しており、入手することが出来た。Ⅰが「沖縄新報」(明治31~大正6)、Ⅱが「沖縄毎日新聞」(明治42~大正3)(共に2008年刊行)である。Ⅱには麦門冬の俳句が大量に掲載されていた。
 一読すると、麦門冬の句は、明治末から大正初期に風靡した新傾向俳句と言えるのかもしれない。意表をつく題材とやや破調に特色がある。『文人・末吉麦門冬』巻頭に掲載された短冊の書が碧梧桐風なのも理解できる。以下にいくつかを紹介する。丸括弧内は発表年月日である。
 月の方へ陰の方へと踊りけり(明治42・5・22)
 人買いの不首尾なげくや月の秋(明治42・11・11)
 猪打ちし鉄砲冷むる肩の上(同)
 刺客を説き服したる暖炉かな(明治43・2・25)
 生き残る芋よ南瓜よ露の中(明治44・12・2)
 君と聞き蚯蚓は未だ耳にあり(同)
 黙想を酒意ありとせらるる秋の暮(大正元年・10・20)
 婆羅門の杖にとまれる蜻蛉哉(大正元年・11・2)
 負腹の碁思案縁に菊の香す(大正元年・11・11)
 二個師団増設を唱ふ案山子哉(同)
 斧研がん今朝研水落葉上ワ澄めり(大正元年・11・25)
 焚火に足がつき落葉林に捕つたり(同)
 戦馬化石の口碑見ればげに落葉も(同)
 大根葉広ロ畑気蒸す午後の時雨かな(大正元年・12・6)
 奇しき隣ありて藪隔つ笹啼も(大正元年・12・⒑)
 新居間取悪ろ笹啼や木深きに(大正元年・12・⒑)
 友と二た昔を語る岩姫隈柳末枯野を(大正元年・12・10)
 草書巧みに試筆遊はすも御五歳(大正2・1・3)
 照り雨に面映ゆし冬木駅見えて(大正2・1・10)
 赴任のびて閑話客あるに水仙花(大正2・1・11)
 殷民七十戸移さる河豚汁の何の(同)
 袋解けば若葉風琴の空鳴す(大正2・6・4)
 涼しそうな眼よ暑さうな顔わいな(同)
 袖を外せば筋唸る樹下風薫れ(同)
 
同時期に活躍した、落平、夕紫浪、紅梯梧といった俳人も同様に新傾向的である。
 船も祈願の勢子振りや初東風の浦 落平(大正2・1・1)
 海の遠鳴り沼田越し鴨は奥澤に 同(大正2・1・5)
回顧年あり経綸も落葉掃くに老ゆ 夕紫浪(大正元年・11・26)
 旗も除幕に冬木の岡を天幕など  同(大正元年・12・19)
 帽子床屋が剃刀動く鏡春寒し   紅梯梧(大正2・1・22)
 貝にかふるに塩帰帆の春の海夕  同(大正2・2・1)

 解説の仲程昌徳氏によれば、「沖縄毎日新聞」俳句欄には「名護二葉会」「カラス会」「同吟会」「松風会」「カジマル会」「清水会」「如風会」「蘇鉄吟会」「榕樹会」「波上月並会」などの俳句結社が登場するらしいが、中心メンバーが新傾向俳句的であるのは、河東碧梧桐の主張が沖縄にも及んでいた点で注目される。現在(2008年時点)確認できる「沖縄毎日新聞」の俳句欄の最初は明治42年2月28日の「名護二葉会」の月次発句で、
 初雪やあけ放ちたる奥書院 翠山
 はつ雪に朝茶呑み干す気持か那 花山
といった、まさに月並み俳句で沖縄らしさはない。
 麦門冬や紅梯梧は「カラス会」に参加していたようで、同時期には、
 焼山の焔明りや三反帆 麦門冬(明治42・3・1)
 孕み帆の舟流るるや風光る 紅梯梧(明治42・3・3)
といった句風であった。沖縄らしい風物が詠まれるようになるのは、(原田)紅梯梧を中心に、大正2年6月10日から「自炊日々」「句境日々」と題して毎日連載されたころからのようで、
 ハブを畏服す人なげの草茂るまゝ 紅梯梧
 石垣の陰ヒソと小葵の紅 同
 火怖じ神に咲く紅蓮御堂這ひ松が 同
 大模様の芭蕉衣や移民出盛りて 同
 慶良間刳舟着く西瓜今朝の秋や出し 同
などがあるが、全体として多いわけではない。敢えて沖縄の風物を俳句で表現しようとする俳人たちの意識が高揚したのはいつごろからなのだろう。(樽見博)