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古書通信

川柳研究「すげ笠」について【日本古書通信 編集長だより21】


先日の古書即売会で、愛知県犬山で発行されていた川柳研究誌「すげ笠」の昭和23年2月(第三巻二号)から昭和32年5月号(第十二巻五号)まで9年間71冊を購入した。初めてみる川柳誌だが、終戦直後の占領期からもはや戦後ではないと言われた時代まで、川柳史を概観できるのではないかと思ったのである。71冊あっても積み上げて20センチくらいしかないのも良かった。
 俳句や短歌雑誌を資料として使う場合、その雑誌が当時の俳句短歌界の全体的な状況を反映しているかで史料価値が違ってくる。結社誌の場合、会を維持するために投稿作品をなるべく多くして、研究的な記事や評論、エッセイ、俳壇歌壇のニュースなどは薄くなる。それでは読んでも面白くないし、歴史的な資料にもなりにくい。後に読んでもその時代を伝えてくれる記事が重要なのである。それも全国的であることが望ましい。
 その点、「すげ笠」は愛知県犬山で発行されていたものであるが、「川柳研究」を標榜するように頁は薄いけれど内容は豊富だし、投稿者は全国に及んでいる。昭和22年が第三巻ということは終戦を迎えて直ぐに創刊されたと考えられる。編集発行人は一貫して山田庄一である。未知の人だが、通覧すると最初は「有町」、後には「祥園」という号を用いた川柳人のようである。しかし、前面にはあまり出ず、選者を岸本水府や前田雀郎、川上三太郎など著名な川柳人に託している。他の選者、西島○丸、椙元紋太、伊志田孝三郎も川柳界では知られた人物なのかもしれない。それが地方にあっても長く刊行出来た理由であろう。
 また、「川柳は久良岐、剣花坊が明治三十六年に創始した独立十七音詩であって、前句でも、附句でも、狂句でも、雑俳でもないのである」と規定している。これを明確な方針としてあげている。
 毎号の山田主宰による巻頭言も、例えば「川柳と社会」「引揚柳人」「柳界と平和」など意識の高さを示している。昭和29年5月号が通巻百号に当たり、山田祥園は「編集者のいる風景 百号に想う」で、「すげ笠を創刊する際私は川柳作家としてでなく出版屋でゆこうと言った。某が出版屋なら俳句雑誌をとすすめたが、それがどうしても出来なかったのは宿命であろう。私は商品価値のある柳誌を理想として立った」と書いている。自分は前面に立たない姿勢がここにある。しかし作家としてのジレンマも隠さず書いていて、同じ雑誌編集に携わる者として共感を持つ。
昭和22、23年の評論類から注目されるものを挙げてみよう。
井上剣花坊の句   小池蛇太郎
雑詠、題詠について 椙元紋太
披講の名人飴ン坊  塚越迷亭
久良岐翁の名句   富士馬鞍馬
川柳の名      椙元紋太
吉川英治氏の印象  安川久留美
藤田珍茶坊の思出  伊志田孝三郎
纏まった全国的な現代川柳史は出ていないと思うが、その意味でも本誌の記事は参考になる。前記の百号記念号、昭和25年3月の五十号記念号でも、本誌が川柳の総合誌的役割を果たしていることを、多くの川柳人が高く評価している。
占領期には、地方の雑誌でもGHQの検閲が必要でプレスコードに抵触すれば削除や発禁となった。23年ころからは雑誌は事後検閲で済んだはずだが、検閲実態を記すことも禁じられたから、本誌の検閲状況も誌面からは分からない。ただ、戦後の荒んだ世情や原爆や空襲の被害について触れたものは想像以上に少なく、やはり笑いを誘うものが多いように思う。詳しく細かく見て行けば、隠れているかもしれないが、ざっと見たところは少ない。
 現在も続く川柳誌「番傘」の創刊者岸本水府選「人間抄」の昭和22年前半の作品からいくつか選んで紹介する。
停電に急ぎインクのふたをする    岐阜  せん太
善処する考慮しますで忘れられ    松阪  みのる
民主主義恩師はやはり上座なり    人吉  紫水
金払いよくて内輪は火の車      名古屋 覚史
オーバーになって貫禄つく毛布    犬山  正穂
この上は呼吸税まで取られそう    神戸  青港子
金がなくなると小説借りてくる    名古屋 正生
お膳など出す程でない物ばかり    東京  正敏
気紛れに蜜柑を焼いた日の孤独    名古屋 鬼堂
 軸と米換えた家まだ琴があり     津   十四
 父ちゃんと言わぬ子がある復員者   佐賀  記代子
 訴へる眼は犬に似て憐れなり     佐賀  塔泉
川柳は世相を端的にあらわす日本のすぐれた文学だと思う。ごく簡単な紹介となってしまったが、改めて雑誌をまとめて見る面白さを感じた。
(樽見 博)