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古書通信

二宮金次郎伝―「報徳記」「二宮翁夜話」ほか(上)【日本古書通信 編集長だより20】

二宮金次郎が最初に農村復興の仕法を実施した桜町(現・栃木県真岡市)が私の在所の隣町ということもあり、いつか詳しい伝記を読みたいと考えていたが、機会がなく何十年もたってしまった。
 最近、日本の財政赤字が一千兆円を超し、歴代内閣も財政再建を第一目標に掲げるのに、赤字は増える一方で改善の目途はどうみてもたっていない。国の心配より自分の足元も怪しいのだが、そんな折、守田志郎『二宮尊徳』(朝日新聞社・昭和50)を読んでみると、尊徳その人の生涯もさることながら、江戸末期の過重な年貢制度の下、地主を含む商業資本が、小作制度を盾に拡大する一方、資金提供を受けた小農民は利子と年貢、小作料のために泥沼のような生活苦に陥ってしまう当時のシステムが解説されて、目から鱗が落ちるような感じを受けた。つまり当時の封建的な農村に貨幣経済が支配し始めたことが農村疲弊の要因なのだ。守田志郎氏は『地主経済と地方資本』『村の生活誌』『日本の村』などの著書がある、近世の農村経済が専門で、その面から尊徳の業績を解明しているのだ。
 二宮金次郎の伝記といえば、薪を背に負いながら『大学』を読み、勉強のために自ら菜種を植えて油を得て夜の読書をし、米を搗きながら本を読み、捨てられた稲の苗を拾って一俵の米を収穫するなど、苦労努力して没落した家を再興、その経験を元に小田原藩家老の家の財政再建に成功する。その能力が藩主や幕府にも認められやがて全国600か所の農村復興を果たした篤農・財政家として、戦前の修身教科書に必ず登場するヒーローである。内村鑑三が『代表的日本人』の一人として世界に紹介もしたが、初めて守田氏の本で、幕末の農村経済の面から見た金次郎を教えられたわけである。

日本偉人伝の代表尊徳、伝記評伝の類は枚挙に暇がないが、基本資料となるのは、尊徳の一番弟子ともいうべき、相馬藩士富田高慶の『報徳記』である。守田氏の本も例外ではない。次に目を通したのはこの本である。
 『報徳記』は、嘉永3年に起筆、安政3年に完成したが、最初に本になったのは、明治16年の宮内省版活版刷り和本八冊。これは政治・行政関係者にのみに配布され、明治18年5月に同じ和綴本8冊で農商務省から一般向けに刊行された。翌年2月には、洋装仮綴1冊本が大日本農会から刊行されている。幸いこの初版を「日本の古本屋」で入手できた。
 『報徳記』は現在も解説付きの本などが出ているが、初期流布本の持つ趣は別である。富田高慶が身命をかけて著した評伝で一読、熱のある名文であることは瞭然、多くの人々に感銘を与えてきたことも納得できる。ただ、細かな目次はあるが、そこに頁数記載や、本文に改行もなく、500頁もあるからその点では誠に読みにくい。和綴本にはフリガナが添えられていたが、1冊本には無い。同じ本の明治38年28刷を最近の古書即売会で入手したが、20年経ってもまったく同じ組方である。
 国会図書館デジタルコレクションには、明治16年12月版の宮内省版のほかに、18年2月の宮内省蔵版もあって、書誌には刊行者富田高慶とあり、扉の富田の名の下に「版権所有」の印がある。因みに宮内省版の奥付には「禁発売」とある。富岡蔵版は関連書には何故かふれたものがないようだ。18年5月の農商務省版は最終の第八巻のみがデジタル化されており「定価金七拾五銭」と記載がある。全八巻の合計金額である。現在の換算で7500円に相当するが、当時の庶民の感覚からすると15000円くらいのようである。ところが同じく一般に販売されたはずの洋装1冊本初版には値段の記載がない。今は無い駿河台下の古書店明治堂書店の主人三橋猛雄さんの大著『明治思想史文献』(1976)は、書誌に使用活字の大きさまで記載されているが、値段の記載がない。因みに20年後の28刷には40銭と印刷されている。
この本の奥付を見ると、明治23年5月に「譲受」とある。定価表示のある18年5月の大日本農会版にも「譲受」の記載があるから、洋装本も23年5月から正式に販売されたのかもしれない。19年から23年の間にも版があるのか、こればかりは実物で確認するしかない。
1996年に栃木県立博物館で開かれた企画展『二宮尊徳と報徳仕法』の解説図録には、個人蔵の『報徳記』原本、高慶自筆『報徳記』原稿、『報徳記』原稿別冊が紹介されている。
 富田高慶には他に『報徳論』(興復社・明治29)がある。これは、「天道ハ自然ニシテ人道ハ作為ニ出ルヲ論ス」など、尊徳独自の世界観を示す報徳思想、治国安民の要旨を論述したもので、嘉永3年に脱稿、尊徳の校閲を受けたものだが、『報徳記』ほどは一般的には知られてはいないようだ。興復社は、明治維新の廃藩置県で、相馬藩の仕法が中絶したため、明治10年、富田と尊徳の孫二宮尊親が開墾・助資を行うために設立。23年に富田が没し尊親が社長となった。『報徳論』刊行時点では、相馬郡石神村にあった。

 尊親に『報徳分度論』(明治36年、相馬郡中村町・大槻太郎刊)がある。「分度」は尊徳仕法の基本で、簡単に説明すれば、石高名目3万石の藩も、過去10年間の平均実収が平均2万石しかない場合、藩主の生活や藩士の俸禄を含め藩の予算はその2万石内に収め、廃田の再興や新田開墾による「度外」の収入は、借金の返済や、農民への貸付、飢饉・凶作時に備えることを厳しく課す政策である。尊徳が仕法を実施する際の第一要件としていた。家蔵の『報徳分度論』は、明治41年の4刷だが、その時の尊親の住所は北海道十勝国中川郡豊頃村。明治29年に興復社を北海道に移している。
 各種尊徳伝の基本資料となっているのは『報徳記』についで、福住正兄の『二宮翁夜話』である。初版は和綴本5冊(静岡報徳社・明治17~20年)だ。武者小路実篤が『二宮尊徳』(講談社・昭和5年)の資料にしたのもこの福住の本で、おそらく後の版の本であろう。福住は尊徳の弟子の一人だが、『二宮尊徳研究文献目録』(龍渓書舎・1978)によれば、明治6年刊行の『富国捷径』、7年『報徳教会道しるべ』以下、もっとも多くの尊徳関係の著書を著わしている。福住については、次回紹介する『二宮金次郎の人生と思想―日記・書簡・仕法書・著作から見た』(二宮康裕著・麗澤大学出版会・平成20年)に「関係人物一覧」があり、そこで「退塾後神道的傾向を強め、他の門弟から批判を浴びる」と記されている。
『二宮翁夜話』にも仮綴1冊本があるが、家蔵本は明治41年の12刷。国会図書館にもこの初版の所蔵はない。奥付にある明治26年2月刊行の合巻第2刷がそれにあたるのであろうか。前記『文献目録』は編年式だが26年には1点の刊行書もない。合巻にあたり第一刷ではなく、第二刷としたためかもしれない。静岡報徳社版『二宮翁夜話』巻末には、「報徳学園図書出版目録正価表」があり、42点が紹介されている。「報徳学図書発売規定」もあり「本書各種定価ノ儀ハ普通ノ書籍ト異ニシテ各別廉価ヲ旨トシ実価ヲ付し発売候ニ付定価引等一切不仕候事」とある。報徳社の活動に占める出版の比重はかなり高かったようだ。(続く)
(樽見 博)