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古書通信

合本の功罪【日本古書通信 編集長だより19】



本誌上や、八木書店グループHPのコラム欄で入手した雑誌について度々書いてきたが、殆どが神田の古書市場もしくは即売会で購入したものだ。その出所はここ数年にわたり膨大な在庫整理をしてきた東京の老舗古本屋だ。通常では一気に揃えることが困難な雑誌が纏めて放出され、しかも、私が求める戦時中の俳句雑誌や、戦中から終戦直後の文化雑誌などは、比較的安価で落札出来た。金額もさることながら、時間をかけずに纏まって入手し得たことが有難い。
 吉岡禅寺洞「天の川」や原石鼎「鹿火屋」、臼田亜浪「石楠」の戦時中分も入手できたが、最近では飯田蛇笏が主宰した「雲母」の昭和十三年から十八年分の合本入手は以前から心がけていても叶わないでいたので嬉しかった。「ホトトギス」や「馬酔木」は、流石に昭和十九年、二十年分は難しいが、それ以外なら比較的入手は楽だ。しかし、「雲母」は何故か難しく数部しか所蔵していなかった。戦時中、俳壇の核として終戦間際まで継続されたのはこの三誌である。勿論、中核誌だから文学館に行けば閲覧は可能だが、戦時中の俳句を考えていく上で、手元にある意味は大きい。
 ただ、問題が一つある。合本された時に表紙が削除されているものが多いのだ。「雲母」は各号とても気を使った表紙であるし、裏表紙裏には編集後記や奥付がある。今回の場合、頁が少なくなった昭和十八年は合本一冊で各号表紙、七月号以降は裏表紙付だが、他は、各年度とも三から四分冊でトップの号の表紙のみの場合が多い。年を追うごとに各号表紙付が多くなり、表紙の重要性は認知されたようだが、一定した法則は無いようだ。定期発行の雑誌の場合、版元が合本を販売するケースもある。藤田初巳らの「句と評論」がそうだ。年間目次付の広告があるが、手元の合本は表紙が削除されている。
バラで手元にある「雲母」を見れば、昭和十四年三月号の表紙裏は蛇笏の著作の版元、価格付一覧、裏表紙は原稿募集通知と奥付、昭和十七年二月号表紙は蛇笏『美と田園』(目黒書店)の広告、裏表紙は募集と奥付、同年八月号は表紙裏白、裏表紙募集と奥付、昭和十八年九月号表紙裏は目次、裏表紙は編集後記と蛇笏の執筆メモ、奥付である。
 雑誌の価値は本文にあるわけで、編集後記や広告から得られる情報は副次的なものだが、侮れない内容が記されている場合もある。奥付の欠如は特に痛い。やはり雑誌は表裏の表紙がないと画竜点睛を欠く感はぬぐえない。
 今回入手の合本だけでなく、表紙裏表紙が削除された合本は多い。硬い紙だと開きが悪いとか、製本上綴じが甘くなるとか問題があるのであろうか。本誌のような中綴じホチキス留の雑誌は合本製本時にホチキスは外して糸でかがるのだろう。通常の綴じの雑誌でも合本時には背は断裁して製本する。割合手のかかる仕事で料金も安くはない。
 合本にすれば保存は格段に良くなるし、整理もしやすいが、厚すぎると開きが悪くなり、コピーもしにくくなる。それ以上に情報の欠如は問題である。気を使った合本が望まれるところだ。複製版とオリジナルの差は言わずもがなである。
 それにしても、これだけまとまったものでも、昭和十九、二十年分は含まれていない。各号薄くて紙質も悪く、部数も抑えられているからだろう。十九年十一月号一冊と昭和二十一年三月の復刊号から二十四年十月号はバラであった。あとは気長に集めるしかないのだろう。 (樽見博)