一人でも多くの人に読まれる学術書を目指して(国文学研究資料館名誉教授 武井協三)
歌舞伎の実態解明を期して
『歌舞伎とは いかなる演劇か』という本を、八木書店より刊行していただくこととなった。これは、初期の歌舞伎の実態を解明することにより、歌舞伎という演劇の本質に迫ろうとした書物である。
本書は、研究者のみにとどまらず、評論家や演劇人、さらには演劇に興味を持つ一般の方々をも、読者として想定している。収録した110余点の図版が、内容の理解を助けてくれるだろう。また、ことさらに難渋な研究的表現も、できるだけ回避している。
400年の歴史をもつ歌舞伎は、時代時代によって、大きくその相貌が変転していく。元禄時代の歌舞伎と現代の歌舞伎では、似ても似つかない、まるで別ジャンルの演劇と言ってもいいような違いを見せている。時代によって内容や形式を大きく異にする演劇が、同じ「かぶき」という名で呼ばれてきたのはなぜか。かならず存在しなければならない、いつの時代にも通底する「かぶき」の基本的な性格、特色があったからではないか。
本書では、その変わらない性格、特色、つまり歌舞伎の核とも言うべき特質を探り出そうとしている。
『歌舞伎とは いかなる演劇か』という大きな設問に対する答えを、本書ではいくつか提出した。「当代性」「断片性」「好色と売色」「饗宴性」「女方」「見立て」などが、それである。すなわち「時代の旬である当代性を忘れないのが歌舞伎」「ストーリーを重視しない、断片だけでも成立するのが歌舞伎」「歌舞伎の生まれ故郷は好色と売色にあった」「観客が舞台に参加する饗宴の演劇が歌舞伎」「歌舞伎は女優のいない演劇」「歌舞伎の演技には、登場人物になりきらない見立てという発想がある」等々である。
ただ、並べたてたこれらの回答は、まるで箱の中にボールを放り込んだようなものだという気がしている。大小様々なボールが、多少は詰め込まれたが、箱にはまだまだ埋めきれない隙間ばかりが残っている。四角い箱に丸いボールをいくら入れても、空間が埋め尽くされることはないという思いは、いまも払拭しがたい。
『歌舞伎とは いかなる演劇か』という問いに対し、これがあれば歌舞伎だという十分条件は得られなかった。しかし、少なくともこれだけはなくてはならないという、必要条件のいくつかは提示できたかと思っている。歌舞伎という演劇に立ち向かっていくためには、私にはこれ以外の方法はなかったのだ。
歌舞伎の研究をはじめて、早くも50年近くが経過したが、本書の表題のような、大上段にふりかぶった問題意識のもとに、つねに研究を続けてきたわけではない。むしろ目の前に現れた資料をこつこつと読み取り、謎を解く面白さにひかれて、初期の歌舞伎のいくつかの小さな断面を明らかにしてきたのが、私の研究の足跡である。
ただ、このような考察を積み重ねてきた結果、どの考察もが『歌舞伎とは いかなる演劇か』という課題に、多少ともこたえるものになっているように思われた。明らかになった数少ない断面を寄せ集めると、本書の表題が浮上してきたのである。
研究者の責務をはくぐんできた来歴
この本を執筆していて念頭から離れなかったのは、専門書と一般書の統合と、実証主義からの解放という、二つのことであった。
『歌舞伎とは いかなる演劇か』という書名を言うと、それは専門書か一般書かと、尋ねられることが多かった。本書が目指したのは、一般の人々にも届く専門書である。一人でも多くの人に理解されるように書くことは、研究者の責務だと思っている。
本書の中には、専門家でないと理解しにくい、実証性を表にたてた論述もあるが、さらに直感や想像力によっても、歌舞伎の本質に迫ろうとしている。実証を積み重ねていくことは、歴史研究の王道であろう。私の研究も、想像や妄想を廃し、着実な実証に沿った、小さくはあっても確固たる業績を積むものであったと自負している。ストイックな姿勢をつらぬいてきたことは、私の研究の誇りでもあった。
ただ、実証主義の呪縛から脱し、もう一歩先を、おぼろげではあっても照射することがあってもいいのではないか。そうすることによって、一般の人々にも、歌舞伎とはどんな特質を持った演劇であるかを、提示することができるのではないかという思いが常にあった。本書では、実証のみにとどまることなく、直感や想像をも駆使して論述することを自分に許している。
著者は、京都で生まれ育ち、早稲田大学に学んだ。恩師の鳥越文蔵先生からは資料の背後までを見通す厳しい眼差しを教わり、郡司正勝先生からは直感によって本質を突くことの大切さを教わった。両先生からは、学問のみでなく生き方をも学ばせていただいた。先生方に出会わずして私の人生は無かったと、古稀を過ぎた今、しみじみと思っている。
早稲田では演劇学科に学んだ。園田学園女子大学の国文科教員として30代を過ごし、その後30年近くを、国文学研究資料館に奉職した。そのため私の研究の方法は、国文学と演劇学をない交ぜにしたようなところがある。
文献資料を着実に読み解いていく国文学研究の方法は、研究にとって手放せない武器であった。ただ一方で、密かに興味をひかれつづけたのは、国文学が対象とする台本や戯曲ではなく、舞台の上で何が行われていたのかという、演技・演出の実像を追究する演劇学の世界であった。
国文学研究の基礎である諸本調査、書誌研究からはじめて、「当代性」という歌舞伎の特質にたどり着いたのが、本書の第二部第一章「『役者絵づくし』の研究 ―諸本紹介・成立年代考証・象眼―」である。初期歌舞伎を代表する女方、玉川千之丞の足跡を追い、「すさまじい」嫉妬の演技の実像を浮上させたのが、本書の第二部第五章「うわなりの開山 玉川千之丞 ―〈河内通〉とその演技―」である。この二つの論考は、私の研究の到達点だと思っている。
歌舞伎の研究をはじめてから、半世紀の歳月が流れた。本書を書き終えた今、それだけの年月を費やした結果が、たったこれだけかという声が、どこからか聞こえてくるような気がする。「そう、これだけなのです」と、昂然と顔を上げて答えたい。